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めがねの聖地・鯖江。福井県鯖江市

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 3月9日、鯖江へ行きました。鯖江駅の改札には眼鏡の看板がありました。
 ところで海が近くにないのに「鯖江」なのか。一説には崇神天皇の時代、北陸征伐の際に使われた矢が鯖の尾に似ている事から「鯖矢」と呼び、それが訛って鯖江になったと言われています。
 鯖江の名の由来(鯖江市役所のサイト)
 鯖江に比較的近い敦賀周辺の若狭湾の鯖や、若狭湾で採れた鯖を京都に運ぶための道「鯖街道」は有名ですが、鯖江の地名とは関係なさそうですね。

 早速、めがねミュージアムへ行く事にしました。

 めがねミュージアムへ向かう途中、眼鏡を感じさせるものを発見しました。まさに眼鏡愛を感じました。

 めがねミュージアムへ入りました。
 入口には増永五左エ門の像がありました。増永五左エ門は鯖江の眼鏡産業の生みの親になります。入口にある説明書きを要約しますと次の通りです。
 豪農の家に生まれた増永五左エ門は、若くして村議会の議員として村の発展に貢献しようとしました。
 農閑期に農家の収入に結び付けられるものがないかと考えた時、眼鏡の需要が増えている事に着目しました。
 この時、日露戦争が勃発しました。戦況を知りたい人達が新聞を読むために、眼鏡の需要が増えました。
 1905年に大阪から眼鏡職人を招いて眼鏡作りに挑戦しました。品質向上を目指した結果、全国的に認められるようになりました。鯖江が眼鏡生産に取り組んで100年以上になりますので歴史を感じますね。

 めがねミュージアムでの展示を見ました。
 中世・近世の眼鏡の展示がありました。眼鏡の歴史を感じました。そして眼鏡の工作機器の展示がありました。

 チタンのフレームを開発したのは鯖江と書いていました。
 チタンを使うと軽いだけでなく、金属アレルギーが起こりにくいためです。チタンは人体との親和性が高く人工関節にチタン合金に使われています。
 ただチタンの加工が難しかったため、どの眼鏡工場でも開発ができずにいました。それを成し遂げたのが鯖江の眼鏡職人です。日本の眼鏡職人の技を感じました。

 眼鏡の需要が増えたのは、国民が日露戦争の戦況を知りたいため新聞を買った人達が眼鏡が必要になったと書きました。
 眼鏡産業にとっては光の部分ですが、日露戦争の報道の在り方は捏造とも言っても良いぐらいの報道でした。日露戦争海軍は東郷平八郎率いる聯合艦隊が丁字戦法でバルチック艦隊を破ったものの、陸軍では武器・弾薬が尽き、戦闘続行ができる状態ではありませんでした。もちろんロシアには隠していました。
 ただ、幸いな事にロシア国内では反政府活動が活発になるなど頭を抱える事態に直面していました。そこで日本は友好国のアメリカに仲介役を依頼し、ポーツマス条約にこぎつけました。本来の目的のロシアの南下政策を止めただけでなく、南樺太、満洲での権益を得たため、外交で勝利したわけですが、まさに辛勝でした。
 しかし、国民の受け止め方は違っていました。マスコミ各社が「大勝利」と煽っていたためロシアから賠償金がとれると思っていました。しかし、賠償金がとれなかった事に対して、国民は「弱腰政府」と言い出し、講和条約破棄運動が起こった上、暴徒化した一部の国民が日比谷焼討事件などを起こしました。マスコミによる捏造報道のために世論を誤った方向に誘導した悪い事例になってしまいました。

 長い余談になりましたが、地場産業「めがね」の鯖江を知ると同時に、マスコミの報道の在り方を感じてしまいました。

 閑話休題。鯖江市の北側にある橋立山に掲げられた「SABAE」の看板があります。北鯖江駅から見る事ができます。夜になるとライトアップします。
 3月15日まででしたらサンダーバードから見える景色でしたが、3月16日の北陸新幹線の敦賀延長に伴い、敦賀で北陸新幹線に乗り換えとなりますため北陸新幹線からは見る事ができません。
 福井、金沢方面へ行く時、橋立山に掲げられた「SABAE」の看板を見ると北陸に来たという気分になりますだけに、鯖江の雰囲気を感じたい時は、JR西日本から第三セクターになりましたハピラインふくいで移動するのも良いかもしれませんね。

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