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金沢武家屋敷巡り

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 3月初旬に金沢旅行しました。
 金沢には歴史的な街並みや建物が残っています。太平洋戦争中、アメリカは金沢には空襲を行わなかったためです。京都、奈良でも伊勢神宮(外宮)でも空襲を行ったアメリカなのに、金沢では空襲を行わなかったのは謎ですが、金沢は空襲を免れたため貴重な文化財が多く残っています。

 兼六園をはじめ見所がいっぱいですが、まずは加賀百万石の武士達が住んでいた所を散策しました。
 足軽屋敷の高西家を見学。足軽は下級武士で他藩では足軽は長屋に住んでいましたが、加賀藩では足軽にも一戸建ての家が与えられました。とはいえ俸禄(いまでいう給料)は安かったため内職をしないと食べていけない状態でした。
 下級武士で安月給。しかも武士なので教養が必要という事で公務と内職を行いながらも教養を身に着けるべく勉強にも励みました。
 話は脱線しますが、江戸幕末から明治維新の際、蘭学などを身に着けた下級武士が活躍し、彼らが明治政府の要人になりました。普通に中学・高校の歴史で習いますため何も気に留めないですが、実は世界的に見ますと驚愕の話です。世界的にみたら歩兵が教養人というのはありえないからです。
 武家屋敷の展示を見ますと「金で買えた足軽」の見出しの説明書きがありました。足軽は名目上、一代限りですが、実際には世襲になっていました。ただ、足軽になるための権利として足軽株がありました。その売買によって足軽になれたという事です。
 それにしても安月給で下級武士の足軽ですが、それでも足軽になりたがる農民や町民がいたという事は、何かお得な事があったのかもしれないですね。
 ところで、武家屋敷は家族だけでなく使用人もいましたが、足軽の場合は家族だけで住んでいました。気兼ねなく家族団らんができる環境のようですね。

 高西家の次は隣の清水家に入りました。
 そこの展示には介錯巻之外口伝覚書がありました。当時、介錯の仕事は足軽が担当していました。介錯人の礼儀作法、手順を書いた物です。
 平たく書きますと切腹した人の首を切り落とす仕事をする介錯人の仕事手順書です。介錯人は好き好んで首を切っているわけでないため、介錯人は大変ですが、介錯の作法書があると思うと怖いですね。
 その一方で足軽の生活の展示もありました。江戸時代初頭は1日2食で1汁1菜だったのが、江戸中期には3食になった話がありました。家族囲んでの食事を行っていました。

 足軽屋敷の次は武家屋敷跡・野村家の見学です。野村家は加賀藩の重臣でした。
 野村家は当初1000石でしたが、のちに1200石に加増されました。1000石は今のお金に換算しますと1億円はあったようです。セレブですね。
 セレブらしく広い屋敷に庭園。しかも落ち着いた感じがしました。南北朝時代のバサラ文化など派手な物もありますので、日本の美が落ち着いた物なのか、それとも派手な物なのか、歴史の素人の私にはわかりません。でも、落ち着いた雰囲気の美にも、派手な美にも、それぞれの良さがありますね。
 そして足軽とは雲泥の差の生活をしていた事を改めて感じました。

 武家屋敷を散策していますと江戸時代にタイムスリップした感じがしました。

 この日の晩、武家屋敷の周辺を散策していましたら偶然にも屋漏堂(おくろうどう)の石碑と看板がありました。
 説明書きを見ますと、1000石の武士・佐々主殿は借金返済のため雨漏りを直さなかったため、武家の品位を落としたという事で藩主の命で切腹となりました。
 それなりの収入がある者は、それに見合った生活をしないと咎められる上、最悪、切腹になる。怖いですね。だが、佐々主殿ですが、いざという時のために蓄えや手入れが行き届いた武具があったという後日談があります。誤解されて切腹を命じられただけに佐々主殿がかわいそうですね。

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