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ジーンズの聖地・児島。北前船で栄えた下津井港。岡山県倉敷市児島

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 1月4日、ジーンズの聖地・児島へ行きました。
 小島駅の構内はデニムの色彩の自販機などがありました。そして駅前には天井からジーンズがぶらさがっていました。ジーンズの聖地を感じますね。
 ただ、児島ジーンズストリートは時間の関係で行けませんでした。

 ところで児島という地名に「島」がついてますが島ではありません。なぜ「島」なのか。
 元々は島でしたが、時代を経るにつれ川から流れてくる堆積物に加え、中世の干拓により江戸時代には本州とつながりました。島でなくなりましたが、地名の「児島」が残りました。

 余談ですが、元々は島ですが現在では島でない例として屋島が挙げられます。平家物語の屋島で那須与一が扇を射抜いた話で有名ですが、当時は屋島は島でしたが、今では四国とつながりました。

 児島の地場産業は紡績です。紡績で培った技術をジーンズ生産に活用しています。
 先程、干拓と書きましたが、海を埋め立ててできた干拓地の問題点として土壌は塩分を含んでいる事が挙げられます。塩分を含む土壌は稲作には向いていませんでした。
 そのため塩分に強い作物として綿花の栽培を行っていました。そして綿製品の生産を行うようになりました。地場産業が紡績になる礎になりました。
 しかもすぐ近くには下津井港があります。収穫された綿花を船で運搬する場所としても向いています。綿製品を扱う問屋が集まるようになりました。

 ところで綿花栽培には肥料が必要です。その頃、蝦夷地(現・北海道)でニシン漁でニシンの油を搾っていました。搾りカスは捨てられていました。その搾りカスに目をつけ肥料にしたのが児島の人達でした。
 北前船でニシンの搾りカスを児島まで運ぶようになったため、児島は北前船の寄港地として栄えました。

 明治になってからも児島は紡績産業の町として栄えました。
 戦後、ジーンズを輸入していましたが、国産化できないかと児島の人達が考え、苦労の末、ジーンズの国産化に成功しました。1965年です。ジーンズの聖地と言われる所以です。
 綿花栽培、肥料としてのニシン、紡績産業、ジーンズ。つながっていますね。

 概略はこれぐらいにしまして、レンタサイクルで自転車を借りて下津井港まで行きました。主に下津井電鉄の廃線跡地を走りました。現在は「風の道」として自転車や遊歩道として整備されています。
 下津井駅跡近くには「下津井小さなてつどう館」がありましたので入ってみました。下津井みなと電車保存会の方々がボランティアで運営しています資料館です。
 車社会になる以前、地域の足として活躍していた下津井電鉄の様子を知る事ができました。
 ただ、下津井鉄道が廃線になったのは車社会になっただけではありません。それまではバス事業で赤字を補填していました。とりわけ岡山・児島間の収益で鉄道を支えていました。
 しかし、瀬戸大橋開通後、児島・岡山間の交通機関がJRにとって代わられたため、赤字を補填していたバス事業が立ち行かなくなりました。その後も色々、手を打つもうまくいかず廃線になりました。
 下津井鉄道の歴史を知る事で、瀬戸大橋開通の影の部分がある事を知りました。

 下津井町並み保存地区を散策中、むかし下津井回船問屋に入りました。下津井の展示があり歴史を知る事ができました。
 北前船がやってきてニシンの荷下ろし、綿花の積み込み。活気のある港町を想像しました。街並みを散策していますと北前船の寄港地だった面影が残っています。

 瀬戸大橋を眺める場所がありました。瀬戸大橋は1988年4月に完成してから間もなく36年になりますが、そんなに年月が経ったとは思わせない感じでした。
 帰りの快速マリンライナーは混んでいました。本州と四国を行き来する人が多い事を感じました。

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