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源氏物語を書いた紫式部の時代。平安中期の話。

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 2024年の大河ドラマは紫式部です。源氏物語の著者で平安中期の人物です。同時代、権勢を振るった藤原道長が有名です。

 源氏物語は高校時代に古典の授業で習いました。個人的な事で恐縮ですが、私は古文が大苦手でしたので、教科書にありました古文を読む事ができませんでした。どんな話か知るために現代語訳を読みましたが、何が面白いのか理解できず、全く頭に入りませんでした。それは仕方がない事で、源氏物語が描かれた時の時代背景や生活様式などを知らずに源氏物語を読んでも、イメージが沸かず、ただ文字の追っかけで終わっていました。

 今も恥ずかしながら、源氏物語の粗筋の粗筋ぐらいしか知識がありませんし、紫式部日記は読んだ事はありませんので、紫式部や源氏物語に関する話は書けません。
 そこで今回は来年の大河ドラマの紫式部の時代を紹介する事にしました。

 まず「紫式部」は名前ではありません。以前のブログ(紫式部、清少納言は人名ではなかった)でも紹介しましたが、紫式部の名前は不明です。
 当時、女性の名前が表に出てくる事はありませんでした。わかっている事は式部省の高官・式部大丞・藤原為時の娘だという事です。その根拠は同時代の貴族で右大臣まで務めた藤原実資の日記・小右記に「紫式部は藤原為時の娘」という記述があるからです。
 紫式部の父親・藤原為時は、越前守、越後守を務めた人物で、最終的な位階は正五位下でしたので下級貴族でした。とはいうものの庶民からみますと雲の上の人であります上、摂関家と同じ藤原北家でしたので、摂関家の分家という家系でした。
 父親・藤原為時自身、漢文・漢詩の才能に長けていました。淡路守に任命された後、一条天皇に漢詩を送り、一条天皇から越前守になるよう任じされました。
 一説には越前に宋の商人がいたため、交渉役として漢文に長けた藤原為時を国司として派遣したと言われています。
 紫式部は父親が越前守として越前に赴任した際、一緒についていきました。そのため福井県越前市には紫式部ゆかりの地という事で紫式部公園があります。

 紫式部は父親譲りで漢詩・漢文が得意でしたが、当時の女性がそれを生かす場所はありませんでした。父親が「男に生まれてくれば」と嘆いたと言われています。
 紫式部は、同じ藤原北家の家系の藤原宣孝と結婚したと言われています。位階は父親と同じ正五位下です。
 この時代、結婚となりますと身分のつり合いが問題になります。そのためつり合いがとれた結婚となりますと、どうしても親戚同士の結婚になりがちです。
 しかし結婚生活は3年で終わりました。藤原宣孝が亡くなったためです。

 ここから紫式部の文才を発揮する事になります。藤原道長の娘で、一条天皇の中宮・彰子の教育係として仕える事になります。
 そんな折、彰子から新しい読み物を読みたいというリクエストがありました。そこで紫式部は良い物語が浮かぶように願うため、滋賀県大津市にあります石山寺へ参拝へ行きました。そこで着想を得たのが源氏物語です。

 ここで藤原彰子と一条天皇の話を紹介します。
 一条天皇は彰子と結婚する前に、藤原定子という皇后がいました。そこに藤原道長が「俺の娘・彰子も皇后に入れろ」と押し込みました。
 皇后が2人いるという事態は異常になりますので、形式的に皇后は1人という体裁をとるため、定子は皇后、彰子は同格の中宮という称号になりました。そのため皇后と中宮は同じ扱いになっています。しかし正室が2人という異常事態には変わりませんでした。
 藤原定子は藤原道長の兄・藤原道隆の娘。そのため定子と彰子は、いとこ関係です。しかし藤原定子は父親が亡くなった事で暗転しました。後ろ盾がいなくなったためです。
 そして兄弟の藤原伊周・隆家は花山法皇の袈裟を射抜く事件を起こし失脚しました。この事件については以前のブログ花山法皇襲撃事件。日本を救った英雄・藤原隆家の若気の至り。 で紹介しています。そして定子は24歳の若さで亡くなりました。
 ライバルがいなくなった中宮・彰子にとって天下の時代です。

 いとこ同士とはいえ、お家の運命を背負っている2人。強烈なライバルのはずですが、2人は険悪な関係ではなさそうで、定子が生んだ親王を藤原彰子はかわいがっていた話があるなど、微妙な関係だったようです。
 ただ藤原定子の教育係は清少納言、藤原彰子の教育係は紫式部は強烈なライバル同士で、闘争心むき出しだったようです。

 源氏物語の粗筋の粗筋です。光源氏は桐壺帝と桐壺更衣との間で生まれた子供です。
 当時の妃の序列は皇后・中宮(同格でかつ正室)、女御、更衣という順番です。桐壺更衣の身分が低い(といっても庶民からみますと雲の上の人ですが・・・)ため、序列は低い立場でした。
 権力者の娘を皇后、中宮を迎えていたのですが、桐壺帝は桐壺更衣を溺愛しました。権力者からすると「帝は俺の娘ではなく、なんで、あいつの娘を溺愛しているのか」といった感じで面白くない上、次期・帝になる男の子を産むという使命をもった皇后・中宮にとっても面白くない事です。そのため桐壺更衣は、強烈な苛めに遭いました。
 苛烈な苛めですが、貴族社会の暴力沙汰は日常茶飯事でした。牛車に石をなげつける、新入り貴族をかわいがる。貴族女性の間でも暴力沙汰があったと言われています。そのため桐壺更衣の苛めは貴族社会のあるある話です。
 平安貴族は、けまりをして、和歌を作成した、牧歌的で平和な生活という印象が強いですが、全くそんな事はありませんでした。

 源氏物語の登場人物をみますと、名前ではなく、役職名だったり、巻の名称を人物に当てはめていたりします。
 光源氏の友人でありライバルの頭中将は官位です。光源氏の息子・夕霧、側室の玉鬘も名前ではありません。光源氏の母親・桐壺更衣の「桐壺」ですが、淑景舎(女御・更衣の住居)の別名「桐壺」に由来します。桐壺帝は、桐壺の更衣を溺愛したため、桐壺帝という呼び名で登場させています。

 いつの時代からかは、わかりませんが、少なくとも平安時代から江戸時代まで身分の高い人の名前を出すのは失礼な行為でした。
 そのため紫式部よりも身分の高い登場人物は、名前を出す事が憚れたため、登場人物は名前では出てきません。
 余談になりますが、時代劇・水戸黄門で格さんが印籠を見せつけながら「水戸光圀公にあらせられるぞ」というのは、実は無礼な行為に当たります。

 紫式部は藤原道長の家系の藤原北家に属します。藤原家から見た源氏の姿を描いているという見方もできます。
 臣籍降下して源氏姓を賜った人物。初代は天皇の息子・孫という事で出世しますが、子孫になれば、どんどん落ちぶれていきます。源氏で貴族の地位を保ったのは清和天皇の子孫の河内源氏(源実朝で血筋が絶えましたが・・・)、村上天皇の子孫の村上源氏です。
 さて光源氏は栄華を誇っていました。光源氏のモデルとされているのは源融と言われています。紫式部の時代よりも150年ほど前の人物です。源融は嵯峨天皇の皇子で臣籍降下しましたが、左大臣まで出世し栄華を誇っていた人物です。なんだか光源氏に似ていますね。

 源氏物語は世界初の長編小説と言われていますが、小説だけでなく当時の生活様式や貴族社会の在り方を知る上での貴重な資料と言われています。
 ただ、原本が存在しない上、写本が繰り返されたため、伝言ゲームではないですが、違った文章などが入ったりしました。それだけでなく、その当時の現代語訳になったりします。紫式部の時代から200年経った鎌倉時代初期に藤原定家が原文に近い形にした物を、現在の私たちが読んでいる源氏物語です。

 とりとめのない文章になりましたが、平安時代の事を少し知るだけでも、来年の大河ドラマを楽しくみれそうですね。

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