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レギスタン広場の3つの豪華な学校。ウズベキスタン・サマルカンド散策。

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 夏季休暇中、ウズベキスタン旅行をしました。
 サマルカンドの見所の1つにレギスタン広場にあります3つの建物があります。
 写真の左側からウルグベク・メドレセ、中央のティラカリ・メドレセ、右側のシェル・ドル・メドレセです。3つは別々の時期に建設された物です。

 「メドレセ」を「マドラサ」と表記している本やネットがあります。どちらも正しいです。
 アラビア語の英語表記「madrasah」をメドレサと読むのか、マドラサと読むのかの違いです。
 「メドレセ」(マドラサ)はアラビア語です。意味は神学校とか教育機関です。平たくいえば学校ですね。

 左側のウルグベク・メドレセに入りました。3つの中で一番古い建物です。
 ティムールの孫でティムール帝国の4代目君主で学者でもありましたウルグベクが建てた学校です。豪華な装飾です。そのためブログの題名を「豪華な学校」としました。
 ウルグベク・メドレセの中には学問の奨励、紙の伝播、天文学の展示ありました。ウルグベクは学問を奨励した上、天文学者だったためです。

 古代のIT革命で文字と製紙技術があげられます。文字により記録が可能になった事、紙の発明によって手軽な記録媒体ができた事です。
 手軽といっても粘土板や木簡・竹簡に比べての話です。中国大陸、中央アジアはどうだったのかは、わかりませんが、少なくとも日本では奈良時代、平安時代、紙は高価な物で、木簡が普通に使われていました。
 藤原道長の支援がなければ、紫式部は源氏物語が書けませんでした。余談ですが大河ドラマ「光る君へ」に描かれているような藤原道長と紫式部の恋愛の関係で支援したわけではありません。

 製紙技術は1900年前に宦官の蔡倫が発明しました。国外不出の技術でしたが、751年のタラス河畔の戦いで唐が破れ、唐軍の捕虜の中に製紙技術者がいたため、製紙技術が中央アジアに伝わりました。
 粘土板などに刻んでいた文字ですが、手軽な紙が使えるようになった事でより多くの記録ができ、かつ、持ち運びが便利になりました。
 アッバース朝が学問を奨励し、830年頃にバクダットで知恵の館ができたのも、製紙技術による大量の情報の記録ができるようになったためと考えられます。
 ウルグベク・メドレセの展示でも製紙技術のお陰で学問が広がった事が書かれていました。
 君主のウルグベクは天文学者だったため天文学の展示がありましたが、天文学者の話は別の日に紹介したします。

 現在の視点では西洋文化と比べてイスラム圏は遅れているという偏見があります。しかし古代、中世を見ますと学問先進国、科学・文化先進国はイスラム圏でした。ウルグベクも学問を奨励したため豪華な学校が建設されました。
 古代西洋にはギリシャ、ローマという凄い文化がありましたが、キリスト教の浸透により、技術よりも神の教えが優先され、ギリシャ・ローマ文明は封印された上、キリスト教のしがらみで科学を否定した西洋社会は遅れた地域になりました。
 

 中央のティラカリ・メドレセの中に入りました。「ティラカリ」は「金箔された」という意味です。中には黄金の装飾がありました。
 そして3つのメドレセの修復工事前の写真、修復工事の写真の展示がありました。都がサマルカンドからブハラへ移った後、サマルカンドは寂れ、メドレセの修復も行われなくなりました。そのためボロボロの状態になりました。
 ソ連時代になりメドレサでの宗教活動は禁止になりました。マルクス思想では宗教は麻薬に辺り宗教活動は禁止になりました。しかし、建物を破壊は行わず、文化財の保護という事で修復工事が行われ、美しい姿に戻りました。

 右側のシェル・ドル・メドレセに入る事になりました。イスラム教では偶像崇拝は禁じていますが、ライオンらしき動物に人面模様のタイルが張られています。

 3つのメドレセの内部ですが、展示以外の部分はお土産屋が並んでいました。観光地ですね。

 日中のレギスタン広場の3つの豪華な学校(メドレサ)も綺麗でしたが、ライトアップされたメドレサも綺麗でした。
 時計の針は22時でしたが、多くの人が集まっていました。ウズベキスタンは治安が良いだけに、22時を過ぎても安心して夜も歩けました。

 ところで「レギスタン」とは「砂の場所」という意味です。砂漠の中にあった神学校といった所ですね。
 

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