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ウズベキスタンの英雄・ティムールとグーリ・アミール廟。サマルカンド散策。

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 夏季休暇中、ウズベキスタンを旅行しました。8月13日、サマルカンドを散策していますとティムールの銅像がありました。
 ウズベキスタンではティムールは英雄になっています。ティムールとは600年以上前に建国されたティムール帝国の創始者です。

 歴史を見ますと、サマルカンドをはじめとします周辺地域は、様々な王朝によって支配された地域です。
 2300年前、ギリシャ北部のマケドニアのアレキサンダー大王は、東方遠征を行い、今のウズベキスタンの地域を支配下に置きました。
 アレキサンダー大王の死後、後継者を誰にするかの遺言がなかったため、マケドニアは三分割。中東・中央アジア地域はバクトリアとなりました。ギリシャ系の王朝の国家でした。

 2100年前はアジアの遊牧騎馬民族系の大月氏が治めていました。
 この時、匈奴の襲撃に悩まされていた漢王朝の武帝は、匈奴を倒すため大月氏と同盟を結ぶ事を考え、張騫を大月氏に派遣しました。ただ、この時は漢王朝は中央アジアについての知識の情報もありませんでした。張騫の大冒険の始まりでした。
 張騫は大月氏との同盟は結べなかったものの、中央アジアの情報を漢王朝にもたらし、漢王朝が西域に関心を持つ事になりました。

 日本では大化の改新が始まった頃(645年)、サマルカンドは唐の支配下になっていました。タラス河畔の戦い(751年)で唐が負けるまでの間、唐の支配下でした。
 ある時はギリシャ系、ある時は北方遊牧民族、ある時は中華帝国の支配地域でした。ただ、唐の場合、漢民族ではなく鮮卑族の王朝だったため漢民族の支配下ではないですが。 
 それ以外の時代でも、様々な王朝が支配した地域でした。

 チンギスハーンが興したモンゴル帝国。当時、サマルカンドはホラズム=シャー朝の首都として繁栄していました。しかし、1220年にモンゴル帝国に攻められ、サマルカンドは徹底的に破壊されました。
 その後、モンゴル帝国が衰退した時、ティムールが登場し、ティムール帝国を興しサマルカンドを復興させました。そして大繁栄しました。

 ティムールの出身地はサマルカンドから南へ80Kmにありますシャフリサブスです。
 ウズベキスタン出身で、かつ、サマルカンドの復興者。そのためソ連から独立後、ウズベキスタン人の心をまとめる象徴としてティムールが最適だったのではないかと思われます。

 ティムール像の近くにはティムールが眠る廟・グーリ・アミール廟があります。「グーリ・アミール」は「王の墓」という意味です。
 元々、グーリ・アミール廟はティムールの後継者で孫のムハンマド・スルタンが亡くなったため建設された物です。その後、ティムールが急死。ティムールの廟にもなりました。
 その後もティムール帝国のスルタン(統治者)の廟になりました。

 ところで中央アジアを治めた王朝では王がハーンと名乗っていますが、ティムールは名乗っていませんでした。
 ハーンと名乗れるのはチンギスハーンの子孫だったため、チンギスハーンの子孫ではないティムールはハーンを名乗っていませんでした。

 グーリ・アミール廟に入る事にしました。イスラム様式の模様が綺麗です。廟の中は黄金色で豪華絢爛でした。ティムールに関する展示もありました。

 ティムールは西はオスマン帝国、南はインドまで遠征し、1405年に明との対決のため東方遠征しました。その途中、急死しました。
 この時、ティムールは68歳でした。当時としては高齢です。ティムール帝国と明との対決にはなりませんでしたが、もし対決になっていたら、中央アジアだけでなく日本を含めた極東アジアの歴史が変わっていたと考えられます。
 鄭和の海外遠征は中止になっていたかもしれません。鄭和の海外遠征が中止になっていれば、2019年8月16日のブログインドネシア・スマラン。明の冒険家の鄭和ゆかりの地 を書く事はなかったでしょう。
 ただ、足利義満に関する主な政策は、少し前になりますので、南北朝統一、勘合貿易、金閣寺造営には影響はありませんでした。

 ティムールは600年以上前の人物ですが、現在も大きな影響がある人物だと強く感じました。

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