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フランス革命は恐怖の始まり
7月27日(現地時間)、パリオリンピックの開会式が行われました。
開会式の演出に驚かされました。その1つにマリーアントワネットが切り落とされた首を持っている場面がありました。ホラー映画に思えました。フランスは1981年に死刑を廃止しましたが、マリーアントワネットをギロチンで処刑したのを肯定していますので突っ込みを入れたくなりました。ちなみにマリーアントワネットはオーストリアを統治していたハプスブルク家の出身なので、オーストリアから抗議がくるのではないかと心配に思いました。
さて、フランスでは王政は前時代的な物で、フランス革命によって共和制に移行し近代国家になったという考え方です。そのためフランスでは王政を倒したフランス革命は偉業となります。
しかし、フランス革命後に起こった出来事を追っかけていきますと、王政を倒して人々が幸福に過ごせる共和制になったわけではなく、ホラー映画さながらの恐怖の始まりともいえます。
フランス革命のきっかけは1789年です。この時、財政難に陥っていましたのでルイ16世が貴族から徴税を行うため、三部会を開く事にしました。
巷では国王・ルイ16世、王妃・マリーアントワネットの贅沢が言われていますが、最大の原因は曾祖父のルイ14世の時代、戦争ばかりしていました上、放漫財政だったため、そのツケがまわっていました。
しかし、ルイ16世の目論見とは大きく外れ、第三身分(平民)と一部の貴族が結びついて国民会議の開会を宣言。それに対してルイ16世が武力弾圧するという情報が流れ、民衆蜂起になりました。それが1789年7月に起こったバスティーユ牢獄襲撃事件です。それをきっかけにフランス革命が起こりました。ただ、この時は、まだ国王と国民が一緒に改革していこうという状態でした。まがいなりにも立憲君主制の方向でした。
事態が一変したのが1791年のヴァレンヌ逃亡事件で、国王一家がオーストリアに逃亡する事態が発生しました。しかし逃亡するはずなのに、ぜいたく品を馬車に詰め込みすぎて速度が出せない上、寄り道ばかりしたため、簡単に御用になりました。
この事件を機会に国王は国民の支持を失っただけでなく、国を見捨てた国王一家という事で王政派からも見放される始末になりました。
そして牢獄に入れられ、ルイ16世、マリーアントワネットはギロチンで処刑されました。
でも、処刑はこの2人だけではありませんでした。ギロチンの嵐が続きました。そのうちの1人で偉大な化学者・ラボアジェは徴税請負人だったためギロチンで処刑されました。高校の化学で習います「質量保存の法則」はラボアジェが発見した事ですが、そんな天才化学者を処刑したため、世界の化学の進歩が遅れました。
革命政府には派閥がありました。ジャコバン派、ジロンド派です。単なる派閥争いを超え、粛清の嵐になりました。
現在でも、どこかの国の独裁者は幹部を粛清していますが、その、どこかの国の独裁者をも真っ青になるようなギロチンの嵐になりました。
ジャコバン派が主導権を握りました。ジャコバン派の指導者はロベスピエール。恐怖政治の独裁者です。王政を倒して出てきたのは恐怖の独裁者です。
この時、周辺諸国ではフランス革命が自国に波及して、各国で革命や王政打倒につながるのではないかという恐怖が芽生えました。
そこでフランスの革命政府を倒すべく、周辺諸国がフランスへ攻撃をかけました。革命政府は「国民主権だから国民が国を守るのは義務。だから徴兵を行って国民に兵役を行わせる」という発想で徴兵を行い、周辺諸国からの攻撃を防ぎました。
周辺諸国は王様の兵隊は傭兵が多くお金で雇われていましたが、フランス兵は「俺たちの国を守る」という意思だったためか士気が高く、周辺諸国からの攻撃を撃退しました。
この時に兵士を鼓舞する歌として歌われた「ラ・マルセイエーズ」が現在のフランスの国家になっています。そして傭兵よりも「国を守る」という士気の高さから、国民主権の国家では徴兵が行われるようになりました。
そんな中、フランスの農村で反革命の反乱が起こりました。ヴァンデーの反乱です。
王政が倒れ、革命政府になった時、徴兵制がはじまりました。革命政府による非キリスト教化運動がありました。宗教弾圧です。特に農村では保守的でカトリックが強い地域でした。しかも税制改革で税金があがったと言われています。
徴兵、税金上がる、キリスト教弾圧。そのため農民が革命政府に対して蜂起しました。革命政府は鎮圧に乗り出し、一説には15万人が殺されたと言われています。
革命政府の言う事聞かなければ処刑。狂気ともいえるロベスピエール。その後の革命政府内での派閥抗争が激しくなり、ロベスピエールは失脚しギロチンで処刑されました。
そんな中、登場するのがナポレオンです。そのナポレオンは皇帝になってしまいました。
ナポレオンは領土拡大に加え、フランスの価値観を広げるため、ヨーロッパ各地を攻め支配していきますが、ロシアに敗れたのをきっかけに衰退していき、ナポレオンは失脚。
ナポレオン戦争の後始末のウィーン会議に登場したのがフランスの外交官で貴族だったタレーランです。フランスは敗戦国でしたが敏腕外交官のタレーラン。アメとムチを使い分けるのが得意なのか、美食家だったタレーランは、各国の外交官に美食を振舞うと当時に、人口が多く軍事力があったので、それを背景に敗者の恫喝を使い、フランス有利の交渉を進めた。
周辺諸国はフランス革命で王政が倒れた事に対して危機感を抱いていました。革命が自国にも普及するのではないかという恐怖心です。周辺諸国とタレーランの思惑と一致したのが王政復活です。王政が復活しました。ルイ18世(ルイ16世の弟)です。
ルイ18世は王政を守ったものの、その次の国王・シャルル10世(ルイ16、ルイ18世の弟)は1830年の7月革命で退位。ルイ=フィリップが王位につきますが1848年に2月革命でルイ=フィリップは亡命。フランスでの王政に幕を閉じました。
ドラクロワの「民衆を導く自由の女神」の絵に象徴されます通り、民衆蜂起が起こりました。
ただ絵画「民衆を導く自由の女神」を見ていますと民衆蜂起で暴力によって権利を勝ち取るという価値観が肯定されているように思えます。
共和制に移行した1848年の12月に大統領選挙が行われナポレオン3世が当選しました。
その後も権力闘争は続き、ナポレオン3世がクーデターを起こし、国民投票で皇帝になりました。第二帝政です。フランス人は共和制を望んでいるのか、王政や皇帝を望んでいるのかわからなくなりますね。
しかしナポレオン3世の失政が続き、退位に追い込まれ、それ以降は共和制になりました。
その後も1871年の普仏戦争の講和に反対したパリ市民が蜂起(パリコミューン)するなど、血で血を洗う事態は続きました。
現在でもフランスで政府や政策に対して不満があると、過激なデモが起きやすいのはフランス革命以降に民衆に浸透した民衆蜂起かもしれないですね。
「王政を倒して近代国家」という発想を全面に出したオリンピック開会式の演出。立憲君主制のイギリス、スペイン、日本などを敵に回すような演出という印象を持ってしまいます。
そしてルイ16世はブルボン家ですが、ブルボン家の分家が現在のスペイン王室になります。スペイン王室がお怒りになっても不思議ではありません。
オリンピックの開会式の演出と、フランスの歴史をみますと、日本人には理解を超えた発想がありますね。