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談山神社。大化の改新の密談の場所。奈良県桜井市
6月22日に多武峰 談山神社へ行った時の話です。
学校の歴史の教科書には、西暦645年に中大兄皇子と中臣鎌足が手を組んで、時の権力者・蘇我入鹿を暗殺。蘇我氏から権力を奪い取りました。乙巳の変と呼ばれている事件です。
事件発生時、日本には元号がなかったため発生時の干支「乙巳」を使って表しています。
同年、日本最初の元号「大化」が定められました。大化の改新と呼ばれる理由です。
乙巳の変を起こすため、中大兄皇子と中臣鎌足が密談したとされる場所が談山神社の裏山です。
「談山」(たんざん)の名前の由来は2人が密談した山「談い(かたらい)山」です。
桜井駅からバスが出ていますが、便数が少ないため、飛鳥駅で電動自転車を借りる事にしました。
飛鳥駅から談山神社までは標高差400mあります。電動自転車のバッテリーが心配でしたが、残量15%の所で無事、談山神社に到着しました
ここで思いました。密談のために、わざわざ飛鳥宮から400mも高い山へ登るのだろうか。もちろん当時の人の脚力がどれくらいかわかりませんが、現代の感覚だと信じられないという感じです。
しかも現代のように道は整備されていませんし、熊に襲われるかもしれませんし、鹿、猪が突進してくるかもしれませんし、マムシに噛まれる危険もありました。
談山神社は中臣鎌足(藤原鎌足)を祀った神社です。
「藤原」姓ですが、中臣鎌足が亡くなる直前、長年の功績に報いるため天智天皇(中大兄皇子)が「藤原」姓を授けたのがはじまりです。奈良時代、平安時代、貴族社会で君臨する藤原家の始まりになります。
談山神社の由来ですが、中臣鎌足(藤原鎌足)の長男・定慧和尚が父親の遺骨の一部を多武峯山頂に埋葬し、十三重塔と講堂を建てて妙楽寺(*注)にしたのがはじまりです。
ただ、明治初期の神仏分離のため、妙楽寺は神社か寺院のどちらかになるのを迫られて、神社となり、今の談山神社になりました。
談山神社の境内を散策しました。
本殿、拝殿、十三重の塔など室町時代、江戸時代に建てられた建物です。再建、追加で建立されたものとはいえ、室町時代、江戸時代の建物が残っているのは凄い事です。
こんな場所で密談するのも凄いですが、重機がない時代に、山の上まで資材を運んで寺院を建造する事は、凄い労力ですね。
お寺でしたので仏像などがありましたが、廃仏毀釈のため仏像が廃棄されました。そのため唯一、如意輪観音像が残っています。残っているだけ奇跡かもしれないです。
廃仏毀釈の際、不要になった仏像のうち、釈迦三尊像は近くの安倍文殊院が引き取り保管されています。
裏山へ登り密談が行われた場所まで行きました。
飛鳥宮から密談の場所まで徒歩で行くのは大変ですが、飛鳥宮から密談の場所までの往復時間を考えますと、本当に密談の場所として最適だったかどうか謎に思えます。
1回の密会だけなら大丈夫としても、もし複数回となりますと、何時間もの間、中大兄皇子と中臣鎌足が何度も姿を消したとなりますと、怪しまれるのは間違いありません。
タイムマシンに乗って飛鳥時代へ行かないと真相はわからないですね。
ところで大化の改新で改革がはじまったと言われています。
ここで疑問が出てきます。中大兄皇子が即位して天智天皇になったのは668年。乙巳の変から23年後です。
巷では大化の改新後、中大兄皇子と中臣鎌足が協力して新しい国造りのために改革していったと言われていますが、23年間、2人はどういう立場で何をやっていたのか気になりますね。
そして乙巳の変の直後から異常事態が起こっています。
当時の天皇は中大兄皇子の母親・皇極天皇でした。異常事態というのは乙巳の変の翌日に弟の軽皇子に譲位しました。孝徳天皇です。
当時、生前譲位の概念がなかっただけに、初めての生前譲位になります。もちろん、上皇という称号がなかったため、上皇にもなっていません。「皇祖母尊」の尊号が送られました。
孝徳天皇ですが日本書紀をみますと、日本初の元号「大化」を制定し、新しい冠位(七種十三階)を制定。その後、冠位19階も制定しています。
公地公民、班田収授法、租庸調も孝徳天皇時代です。そして遣唐使を送っています。
学校の教科書で習う「大化の改新後は中大兄皇子と中臣鎌足が協力して改革を進めていった」がありますが、実際の所、2人が主導権を握って改革を進めたかどうかはわかりません。
ただ、孝徳天皇には権力がなかった典型例が日本書紀の記述にあります。
孝徳天皇は難波宮遷都を行いましたが、中大兄皇子が「飛鳥に戻ろう」と言い出し、孝徳天皇を置き去りにして、皇族・貴族が一斉に飛鳥に戻る事態が発生しました。孝徳天皇置き去り事件です。
孝徳天皇に権力があれば、絶対に許さなかった上、阻止できたでしょう。おそらく権力がなかったため置き去りにされる事件となったと考えられます。孝徳天皇は失意のうち崩御してしまいました。
ただ、完全に無慈悲に孝徳天皇を置き去りにしたかといえば、孝徳天皇が病に伏せた時、飛鳥から皇極元天皇、中大兄皇子が難波宮まで見舞いに行っているのは日本書紀に記されています。
余談ですが日本書紀には難波宮遷都、飛鳥に戻る際、ねずみまでが食料を求めて移動した事も記述されています。
その辺りの話は以前のブログ「大阪歴史博物館・その1。奈良時代と難波宮跡で触れています。
孝徳天皇の崩御後、皇祖母尊になっていた皇極・元天皇が、今度は斉明天皇として重祚しました。初の生前譲位、初の重祚の天皇です。
斉明天皇。ハコモノ大好きの天皇で日本書紀には土木事業を活発に行っている事が記されています。ただ、斉明天皇の意思なのか中大兄皇子が主導したのかは日本書紀には書かれていません。
そんな中、唐と新羅の連合軍が百済を攻めてきたため、百済から援軍要請がありました。白村江の戦いです。援軍を送るのを決めたのが斉明天皇なのか中大兄皇子かはわかりませんが、当時としては高齢の68歳の斉明天皇が陣頭指揮を行うため筑紫に向かいました。
しかし、661年、斉明天皇は崩御。中大兄皇子が即位するかと思えば、668年までの7年間、天皇の位は空位になっています。
何やらありそうですが、日本書紀を見る限りでは、その理由は書いていません。
孝徳天皇時代、斉明天皇時代、中大兄皇子と中臣鎌足は主導権を握って改革をしていたのか、それとも天皇主導で2人は天皇の補佐だったのかは、歴史の素人の私にはわかりませんが、日本書紀を見ると違った視点で見る事ができます。
余談ですが中臣鎌足は日本書紀では「中臣鎌子」で登場します。
小学生の時、歴史の授業で蘇我「馬子」、小野「妹子」を習って「男性なのに子が付く名前は変だ」と思っていました。
爵位の「子」が由来ではないかと想像します。論語でも「先生曰く」を「子曰」となっているのと同じかもしれないですね。
(*注)現在、談山神社の近くに妙楽寺がありますが、談山神社とは全く関係のないお寺です。