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忠臣蔵48人目の義士になれなかった萱野三平。大阪府箕面市

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 忠臣蔵47義士と言われますが、幻の義士が1人いました。萱野三平です。
 11月3日、箕面市にあります萱野三平の生家・萱野三平記念館へ行きました。北大阪急行・箕面萱野駅が最寄り駅になります。

 萱野家は源氏の子孫と言われ、鎌倉時代、室町時代は、箕面の萱野を治める豪族でした。苗字の「萱野」は地名に由来します。
 しかし、没落を迎える事になりました。織田信長が荒木村重の有岡城(JR伊丹駅のすぐ西)を攻め、荒木村重が敗北。荒木氏に属していました萱野家は領地を没収されました。
 余談ですが、2014年の大河ドラマ「軍師・官兵衛」で主人公の黒田官兵衛が幽閉されたのが有岡城になります。

 萱野家再興になったのは江戸時代です。縁があって萱野家は旗本・大嶋氏に仕官する事になり、大嶋氏の所領(豊中市庄内)の代官を務める事になりました。
 三平が13歳の時、大嶋氏の推薦で浅野内匠頭の小姓を務める事になりました。13歳で就職。今ですと児童労働と言われそうですね。

 三平が赤穂藩に仕官する事になった後、江戸城・松の間で事件が起こりました。
 主君・浅野内匠頭が松の間で吉良上野介を斬り付ける事件です。この事件で赤穂藩はお取り潰しになりました。

 三平は主君の無念を晴らすため仇討ちに参加しようとしました。しかし、父親が反対しました。旗本・大嶋氏に迷惑がかかるためです。

 三平は主君への恩義と、父への義理で板挟みになり、主君・浅野内匠頭の月命日に、三平は自刃しました。討ち入りの10ヶ月前です。
 それを聞いた大石内蔵助をはじめとする赤穂藩士の心をまとめる事になり、浅野内匠頭の命日に討ち入りを果たします。

 赤穂浪士の討ち入り。現代の視点で見ますと、いきなり松の間で切りつけられた吉良上野介は完全に被害者ですし、浅野内匠頭は加害者で、浅野内匠頭が幕府から罰せられて当然です。
 そのため現在の視点では赤穂浪士の討ち入りは、ただの逆恨みの行動に映ります。
 しかし、中世や近世の日本では喧嘩両成敗という法意識が根底にありました。加害者が全面的に悪い10対0の事案でも被害者も罰するべきという発想です。
 幕府が吉良上野介を処分がなかった事について、世間は「それはおかしい」と思っていました。
 そのため当時の法感覚ですと「赤穂浪士達は、主君だけ罰して吉良上野介にお咎めなしにした幕府はおかしいため、幕府に代わって吉良上野介を成敗した忠臣達」という感じです。
 現代社会でも暴力やイジメの問題で、被害者にも原因があるように詮索する傾向が見受けられます。

 萱野三平記念館は、三平の生家でもあり、自刃した家でもあります。自刃した間が現在も残っています。

 もし、三平が赤穂浪士に加わっていたら赤穂浪士48(フォーティーエイト)になりますので、〇〇フォーティーエイトの走りになっていたかもしれないですね。

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