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大阪歴史博物館・その1。奈良時代と難波宮跡。大阪市中央区。

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 10月18日、大阪歴史博物館へ行きました。NHK大阪放送局と仲良く並んでいました。
 ここは難波宮の内裏(今でいう皇居と霞ヶ関)があった所です。

 大阪歴史博物館の中に入りますと、大極殿の宮廷儀礼を再現した所に出会います。
 写真撮影は大半は可能ですが、営利目的での利用ができないため、このブログでは写真をお見せする事ができません。

 ところで難波宮には前期と後期があります。
 前期は孝徳天皇の時代に飛鳥から難波宮へ遷都しました。日本書紀には「老人たちは口々に、ネズミが難波の方に向かっていたのは、難波遷都の前兆だったのか」と書かれています。ただ、遷都の理由については触れられていません。

 しかし、653年に実権を握っていた中大兄皇子(後の天智天皇)が飛鳥に戻る事を主張し、孝徳天皇は反対しました。その結果、孝徳天皇を置き去りにする形で、中大兄皇子は母親の皇祖母尊(皇極・斉明天皇)、大海人皇子(後の天武天皇)達を引き連れて飛鳥に戻ってしまいました。
 なぜ中大兄皇子が飛鳥に戻る事を主張したのかは日本書紀には触れられていません。その代わり、ネズミが大和に戻ったと書いています。
 翌年、難波宮に残った孝徳天皇は失意のうちに崩御しました。そして皇祖母尊は重祚して斉明天皇になりました。難波宮が首都ではなくなりました。その後、難波宮は迎賓館の役目を果たしていました上、683年に副都制の詔により難波が副都になりました。1300年以上前に日本に副都心がありました。
 しかし、天武天皇の時代の686年に火災が起こり焼失してしまいました。これが前期・難波宮です。

 余談ですが、この時代、上皇(太上天皇)という尊号はありませんでした。皇極天皇が最初に生前譲位を行った天皇だったためです。そのため実際に贈られた尊号「皇祖母尊」と書きました。上皇という尊号ができたのは持統天皇が生前譲位された時からです。

 後期・難波宮は聖武天皇による難波遷都でした。天災、疫病の大流行が起こり、朝廷の高官が次々と亡くなり、朝廷が大混乱していた時代でした。聖武天皇は現実逃避から740年に徘徊をはじめました。伊勢巡幸、恭仁京遷都紫香楽宮遷都を行い、744年に難波遷都を行いました。しかし、翌年、聖武天皇は周囲から平城京に戻すべきという声に押され、平城京に戻りました。

 博物館の10階には難波宮時代の展示がありました。
 前期難波宮の復元模型、後期難波宮の復元模型。発掘された物の中に和同開珎がありました。埼玉で採掘された銅で造ったため「和銅」になります。
 余談になりますが「和銅」といえば、平城京の元明天皇の時代に埼玉で銅鉱山が発見され、大発見の喜びのため元号が「和銅」になりました。

 大阪歴史博物館のその他に階の展示につきましては、後日、紹介いたします。

 大阪歴史博物館のすぐ南には難波宮跡公園があります。
 公園にも行きました。公園は大極殿があった場所で、大極殿の土台だけ再現されています。今は大阪市民の憩いの場になっています。

 ビルが立ち並ぶ所に古代を感じられる場所がありますので、ちょっとしたタイムスリップをした気になりますね。

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