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大阪歴史博物館・その2。石山本願寺の展示と石山本願寺跡地。

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 10月18日、大阪歴史博物館へ行きました。
 昨日のブログでは10階の奈良時代の難波宮の話を書きましたので、今日は9階にあります中世の展示と石山本願寺跡地の話を書きます。
 写真撮影は大半は可能ですが、営利目的での利用ができないため、このブログでは写真をお見せする事ができません。

 館内の説明書き400年~500年前は「大坂」という表記についての説明がありました。当時は表記が定まっていなかったため、「小坂」や「尾坂」という記述されている文献があるとの事でした。今の「大阪」になりましたのでは、明治以降です。
 明治になり、大阪の地位が低下したため、「坂」だと転げ落ちるようで縁起が悪いとなり「阪」になりました。

 展示を見てましたら、本願寺の模型、顕如の肖像画がありました。石山合戦のあった石山本願寺です。
 石山本願寺は1533年に今の大阪城の場所に建設されました。1532年に山科本願寺が焼き討ちにあったため、今の大阪城の辺りに移転したためです。

 しかし安住の地ではありませんでした。織田信長と石山本願寺の戦いが起こりました。石山合戦です。しかし石山本願寺の守りは堅く、攻略に10年かかりました。
 石山合戦の終盤になりますと、本願寺内部で和睦か徹底抗戦かで対立しました。顕如と三男の准如は和睦派、長男の教如は徹底抗戦派でした。
 その事もあり本願寺の後継者は三男の准如になりました。豊臣秀吉が本願寺を懐柔するため京都の地を与えました。今の西本願寺です。
 徳川家康は、本願寺内部の対立を煽って、本願寺の力を削ぐため、長男の教如に京都にお寺を寄進しました。これが東本願寺です。

 大阪歴史博物館を出て大阪城公園を散策しました。
 石山本願寺の推定地の記念碑、蓮如上人の筆跡の碑がありました。そこの看板に本願寺と大坂の話が書いていました。

 1496年、当時の本願寺の指導者・蓮如が大坂に宿坊を築きました。1498年の蓮如が書いた文書「御文」に大坂という地名が書かれています。
 これが現時点で発見されています文献資料で、最初に「大坂」という文字が登場した最初の例だといわれています。
 もっと古くから「大坂」が使われていると思っていましただけに、中世からの呼称だと知り驚きました。

 大阪の歴史の1ページを垣間見た感じでした。

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