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大阪歴史博物館・その3。銅精錬の拠点だった江戸時代の大坂

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 10月18日、大阪歴史博物館へ行きました。今日は9階に展示されています江戸時代の大阪の話を書きます。
 写真撮影は大半は可能ですが、営利目的での利用ができないため、このブログでは写真をお見せする事ができません。

 江戸時代の大坂。米市場だけでなく、色々な物が出入りする物流の拠点でした。
 そして物流の拠点だけでなく、工業も盛んでした。明治時代、大阪は東洋のマンチェスターと呼ばれる東洋随一の工業地帯でしたが、江戸時代も工業が盛んでした。
 銅吹所のコーナーがあり、そこには大坂が銅の精錬工程の説明や、精錬した輸入用の銅の棒を生産過程の展示、実際の銅の棒の展示がありました。
 

 当時の日本は資源大国で銅が大量に採掘されていました。その銅は輸出品のひとつでした。
 全国の銅鉱山から採掘されました荒銅(純度90%以上)が大坂に集められ、大坂で純度を99%以上に高める精錬を行い、全国各地や輸出品になりました。
 冶金の知識がゼロの私なので、銅鉱石からどうやって純度90%以上の荒銅を選べたのか。その方法はわかりません。
 純度を高める精錬工程が展示の説明を見ますと、荒銅の中には銀が混ざっている場合があり、それを分離するために、鉛を使ったり、灰を使ったりしています。なぜ、その方法を用いますと銅と銀と分離できるのか、わかりませんでした。そして荒銅に銀の有無をどう判別したのか。その方法もわかりません。
 もし、私に冶金の知識がありましたら、それだけで数日は荒銅ネタでブログをひっぱれただけに、冶金の知識は必要性を感じました。

 ところで銅精錬を主に請け負っていましたのは住友家でした。
 住友家初代・住友政友と一緒に銅精錬の新技術を開発した蘇我理右衛門がいました。
 蘇我理右衛門の長男・友以は、住友政友の養子になりました。二代目住友家当主です。
 住友友以も銅精錬の道を進み、1638年に大坂の長堀に銅吹所を開設しました。これが大坂の銅加工のはじまりです。
 住友友以 ここまで知らなかった!なにわ大坂をつくった100人=足跡を訪ねて=(関西・大阪21世紀協会)

 その後、住友友以は銅精錬業だけでなく、色々な分野に事業を拡大させ、今の住友グループの礎を作りました。
 長堀の住友銅吹所は1876年(明治8年)に閉鎖しました。銅吹所の役目を終えた後は住友家の邸宅になりましたが、戦災で焼失してしまいました。

 大阪歴史博物館の見学を終えた後、長堀にあります住友銅吹所跡へ行きました。大阪メトロ・長堀駅の近くにあります。
 説明版には、日本が世界有数の銅採掘国だった事。住友銅吹所が日本最大のの銅の精錬所で、日本の銅精錬の3分の1を担っていた事が書いていました。
 商業の町だけでなく、工業の町でもあった大坂。その一部分を垣間見る事ができました。

 銅の管理などを行っていました役所は、銅座と呼ばれていました。
 全国から荒銅を買い上げ、銅吹所で精錬された銅の管理や輸出関係を担っていた所です。
 緒方洪庵の適塾の近くに跡地があります。この日、適塾にも行きましたので、銅座跡も撮影しました。
 現在、跡地は立派な木造の建物になっています。明治13年に開園されました愛珠(あいしゅ)幼稚園で、日本に現存する最古の幼稚園です。
 現在の建物は明治34年に建造された物なので、戦災を免れました。適塾も戦災を免れていますので、奇跡としか言いようがないですね。
 

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