Blog

聖武天皇の夢の跡。紫香楽宮跡。滋賀県甲賀市信楽町

ブログ

 3月21日、聖武天皇が遷都した紫香楽宮跡へ行きました。鍛冶屋敷跡は看板があるのみでした。
 ここから離れた所に展示施設もありますが、コロナウイルスの影響で閉館中でした。仕方ないですね。

 聖武天皇は引越し魔で、5年間に5回も遷都した人物です。
 その背景には、天災・政権内部の反乱、疫病が流行り朝廷の中枢にいた藤原四人兄弟をはじめとする高官が次々となくなり、朝廷が機能しなくなる状態でした。
 そのため聖武天皇は気が滅入ったのか、平城京から伊勢に逃避しました。
 一説には聖武天皇は気弱な人物だったため、精神的に参っていたようです。その一方で光明皇后は強気の人物だったようです。

 その後、恭仁宮(現:京都府木津川市)に遷都しました。この時、紫香楽に離宮を建設する事になりました。
 この当時、災害がありますと、呪われているという事で、遷都が行われる事がありました。
 恭仁宮の後、難波宮(大阪府)に遷都しました。この間、何回か聖武天皇は離宮だった紫香楽宮へ行幸しました。紫香楽宮が気に入り、紫香楽宮に遷都しました。
 そして紫香楽宮に大仏建造まで発表しました。科学が未発達だった時代、何かあると神仏に祈るしかありませんでした。
 そのため聖武天皇と光明皇后は仏教の信仰による平穏な世界を目指していました。

 ところが、紫香楽宮では火災が相次ぎ、美濃で大地震が起こるため、呪われし地になった上、紫香楽宮は山間部のため、貴族達が遷都に難色を示していました。
 そのため聖武天皇は平城京に戻りました。聖武天皇の迷走が終わりました。

 紫香楽宮に大仏建造はできませんでしたが、平城京に大仏建造がされました。

 聖武天皇と光明皇后は、次々に襲い掛かる災いに立ち向かうため、仏教の信仰で解決しようとしていました。
 しかし、相次ぐ遷都と大仏建造、各地に国分寺と国分尼寺の建造により、国家財政の疲弊と、民衆の疲弊を招く結果になりました。

 紫香楽宮跡に大仏はできませんでしたが、現在は信楽焼きの里になっています。そのためお馴染みの狸がお出迎えしてくれる場所になっています。

Share

Category

Archive

Recent posts