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鋳物、鍛冶の金物の町。堺と鉄砲の話。大阪府堺市

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 3月15日、大阪府堺市へ行きました。堺は金物の町です。
 金物の歴史を知りたいと思い堺伝統産業会館へ行きましたが、コロナウイルスの影響で休館になっていました。仕方がないですね。
 金物の町らしく、堺伝統産業会館には巨大な包丁が飾っていました。

 金物が堺の地場産業になった理由は、一説には古墳時代にまで遡ります。古墳建造の必要な鉄製品の道具を作るため、鍛冶職人が堺に集められた事にあります。
 世界遺産・百舌鳥・古市古墳群がありますだけに、説得力がある説ですね。
 平安時代末期には堺(注釈1)を含めた河内南部周辺には河内鋳物師の集団がいて、全国各地の梵鐘を始め、鍋などの鋳物を製造していました。
 その頃から堺は金物の町でした。

 (注釈1) 堺市は旧・摂津国、旧和泉国、旧河内国がありますので、ややこしいです。

 戦国時代になり鉄砲はポルトガルから種子島に伝来しました。種子島では鍛冶職人が鉄砲の製造を行っていました。
 この時、堺の貿易商で鍛冶職人だった橘屋又三郎が種子島まで行き、鉄砲の製造技術を学びました。
 そして堺に戻ってきた際、全国に鉄砲を売り込みました。堺の鉄砲鍛冶の始まりです。
 今年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」でも、明智光秀が堺へ行って、鉄砲を入手した話が出てきましたですね。

 鉄砲の可能性を感じた戦国武将は鉄砲を購入していました。
 織田信長も、その1人です。経済力を背景に大量の鉄砲を購入しました。
 長篠の戦で鉄砲の三段構えは有名ですね。ただ長篠の戦の鉄砲の三段構えは後世の創作と言われています。

 ところで堺には鉄砲町があり、その界隈には鉄砲鍛冶屋敷跡が残っています。
 太平洋戦争の時、堺は空襲が甚大な被害を受けましたが、幸い古い建物が残っているという事です。

 もし、堺に金物技術がなければ、鉄砲の普及は違った形で行われたかもしれないですし、戦国時代の勢力図も変わっていたかもしれません。
 そう考えますと、地場産業を通してみる歴史も面白いですね。

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