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ザビエルは偉人?それとも殺人鬼? ザビエル公園。大阪府堺市
3月15日、大阪府堺市へ行きました。ザビエル公園がありました。
フランシスコ・ザビエル。イエスズ会の幹部で、カトリックの教えを広めるため、日本をはじめ東アジアで布教活動を行った人物として有名です。
1549年に鹿児島に上陸し、平戸、山口を経て、1550年に堺に来ました。
その後、1550年に堺に来ました。堺の豪商・日比屋了慶が、ザビエルに邸宅の一部を提供をはじめ、様々な形でザビエルの布教活動を支援していました。
ところでザビエルは、最初に鹿児島に着きましたが、それには理由がありました。
ザビエルはインドのゴアを拠点に活動していました。そしてマレーシアのマラッカに赴いた時、鹿児島出身のヤジローと出会いました。
ヤジローの話を聞いて日本に興味を持ったザビエル。ヤジローの案内で、ザビエルはヤジローの故郷・鹿児島へ向かいました。
カトリックの布教活動を行ったザビエルは、日本では偉人になっています。
しかし、ザビエルには殺人鬼という恐ろしい顔がありました。インドのゴアで改宗ユダヤ人を次々に火あぶりにしました。
ザビエルの時代、宗教改革が吹き荒れ、カトリックとプロテスタントの間で殺し合いが行われる状態でした。
カトリックは異端弾圧は苛烈さを増していました。
イエスズ会はアジアへカトリックを広め、かつ、自分達の影響下(スペインの植民地)にしようという目論みがありました。
そのためイエズス会はアジアへ向かい、インドのゴアを拠点にしました。
当時、インドのゴアには迫害を逃れてきた改宗ユダヤ人が平穏に暮らしていました。しかしイエスズ会がゴアにやってきた事で一変しました。
そんな中、ザビエルは、ゴアにいた改宗ユダヤ人を異端審問し、次々と火あぶりにしていきました。
ゴアにいたユダヤ人から見ると、ザビエルは殺人鬼です。
ところで当時の日本人はザビエルの夜叉の側面を知っていたのか、知らなかったのかは、わかりません。
ただ、戦国大名は無邪気にカトリックを受け入れた人ばかりではありませんでした。
織田信長は、危険性を察知しつつ、石山本願寺、延暦寺の勢力を牽制するため、カトリックの布教を認めました。
その上でヨーロッパの技術・文化を取り入れていきました。カトリックを利用していました。
しかし、カトリックが広がっていくにつれ、危険な側面を問題視した豊臣秀吉はバテレン追放令を出しました。
そして徳川幕府は1612年にキリスト教禁止令を出しました。
徳川幕府はカトリックのスペインとポルトガルを排除しましたが、プロテスタントのオランダ・イギリスとは交易を認めていました。
プロテスタントは布教活動を行わなかったためです。のちにイギリスは自ら撤退しましたため、オランダのみの交易になりました。
この時、日本は世界でも有数の軍事大国だったため、カトリックを締め出しても、スペイン、ポルトガルは報復する事はできませんでした。
宗教改革は、遠いヨーロッパの出来事のように思えますが、実は日本にも影響していた事がわかりますね。