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緒方洪庵の適塾と除痘館跡。大阪市中央区

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 10月18日、大阪の北浜にあります蘭学者で医者でもあります緒方洪庵の適塾と除痘館跡へ行きました。

 適塾は緒方洪庵が1838年に設立した私塾です。この時代、ヨーロッパの列強の脅威が日本に忍び寄っていました。適塾が設立された2年後の1840年はアヘン戦争が起こり、「あの大国・清に勝った英国はどんな所だ」と日本に衝撃を与えました。
 しかし、当時の日本人の不思議なところは、脅威に怯えるのではなく、日本も列強のように強くなるために外国文化を吸収しようという旺盛な意欲があった事です。

 適塾で学んだ有名人は、1万円札でお馴染みの福沢諭吉、長州藩の軍師で医者だった大村益次郎、福井藩の橋本佐内、幕臣で明治以降は外交官として活躍した大鳥圭介が挙げられます。ある有名人物の曽祖父も塾生でした。それは後述しています。

 適塾の中に入りますと、緒方洪庵、適塾の事、門下生の事などが展示されていました。
 展示内容を見て、一番驚きましたことは、オランダ語の文献(辞書だけでなく、医学や物理などを合わせて)が10部ぐらいしかなかった事です。
 今ですと、英語の学習本だけでも書店へ行きますと、沢山の学習本が棚に置かれています。
 他の分野でも日本語で書かれた本が大量にあります。

 しかし、当時は限られた書籍しかなかったため、限られた範囲でしか情報しか得る事ができませんでした。そんな状況の中で、オランダ語と同時に西洋の科学を学んだ塾生は凄いとしかいいようがありませんでした。

 塾生の世界は実力社会でした。成績が良い人ほど、良い場所で勉強し、良い場所で寝る事ができました。
 競争社会だったため、我こそはといわんばかりに勉強に励んでいました。そのため服装やお洒落には無頓着だったそうです。

 気になりますのは、どうやって適塾の運営費を稼いだかです。学費をしっかりとっていました。
 ネットで検索しますと適塾の学費を書いたサイトがありました。学費でみる江戸時代の教育事情(コープ共済)

 1863年、緒方洪庵は幕府の奥医者に任ぜられ、大坂を去りました。翌年、亡くなりました。
 緒方洪庵が去った後も適塾は、緒方洪庵の養子・緒方拙斎が運営を引き継ぎ、1886年まで存続しました。明治の世になっても適塾は存在していました。
 その一方で1869年に緒方洪庵の次男・惟準を初めとして、大阪仮病院、大阪医学校を設立。それが大阪帝国大学、現在の大阪大学になりました。
 適塾 大阪大学の原点(大阪大学のサイト)

 適塾の近くに緒方洪庵が設立した除痘館跡があります。今は緒方洪庵記念財団が入っています緒方ビルの所です。
 緒方洪庵は天然痘から人々を救うため牛痘種痘を行いました。イギリスのジェンナーが牛痘種痘の成果を発表したのは1798年です。
 種痘はシーボルトが日本に伝えたと言われています。ヨーロッパの医学がオランダを通じて日本に伝わっていた事がわかりますね。

 訪れた日が日曜日でしたので除痘館記念室は閉まっていました。ところでビルの1階には手塚治虫の漫画「陽だまりの樹」の絵が展示されていました。緒方洪庵や適塾をモデルにした漫画です。
 冒頭に有名人物の曽祖父が適塾の塾生と書きました。その人物は手塚良仙(良庵)で、手塚治虫の曽祖父に当たります。手塚治虫も大阪大学医学部へ進学しました。そして大阪大学で医学博士号を取得しました。曽祖父と同じ学校に通ったと考えますと、何か運命づけられた物を感じます。
 

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