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薬の町・大阪の道修町を散策。大阪市中央区。

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 10月18日、道修町(どしょうまち)を散策しました。
 道修町は江戸時代から薬の町です。江戸時代、大阪は物流拠点として栄え、薬問屋が道修町に集まったことに由来します。
 その名残りで、現在でも製薬会社の本社・支店が軒を連ねています。

 田辺三菱製薬さん。合併する前の田辺製薬は1678年に、この地で創業しています。
 田辺三菱製薬資料館(田辺三菱製薬会社さんのサイト)
 この資料から海外から輸入していた薬を全国に送るための中継地点だったことがうかがえます。

 道修町を散策していますと、大日本住友製薬さんのビルのショーウィンドーには製薬の歴史に関する展示がありました。
 大日本住友製薬さんですが、2005年に大日本製薬と住友製薬が合併してできた会社です。
 その大日本製薬は、明治30年(1895年)に、道修町の有力薬業家21人が集まって大阪製薬株式会社を設立したのがはじまりです。
 当時、品質の悪い薬が出回っていたため、それを憂いた人達が道修町のブランドを守るため、立ち上げたと書いていました。
 品質向上のため日本の薬学の父・長井長義を大阪製薬株式会社の技術顧問に就任した事が書いていました。

 大日本住友製薬さんの説明書きにはありませんでしたが、明治初期に品質の悪い薬が出回った背景を書きます。
 江戸時代、薬問屋は株仲間がありました。許可を得た問屋が薬販売を独占する仕組みです。
 暴れん坊将軍こと徳川吉宗時代の1722年、124軒の薬問屋が株仲間として公認されました。
 ところが明治になり株仲間が解散となり、誰でも自由に医薬の販売に参入できるようになりますと、今度は粗悪品を販売して暴利を貪る業者が出てきました。
 しかも粗悪品を販売しても罰せられませんでした。規制のない自由市場で起こってしまう問題です。
 そのため道修町のブランドを守るために、道修町の有志が立ち上がったというわけです。
 株仲間。競争がなく、特定の商人が儲けを独占するという悪い面が強調されがちですが、品質を守る、安定供給などの利点もありました。

 散策を続けていましたら、大阪佐々木化学株式会社さんの入口の石タイルには、薬草の絵がありました。
 
 道修町の中に少彦名神社(神農さん)があります。薬の神さんを祀った神社です。
 少彦名は古事記に出てきます日本創生神話の中に出てきます神で、薬の神さんでもあります。神農は古代中国の薬の神さんです。
 江戸時代、薬問屋が道修町に集まっていました事から、薬問屋が1780年に日本と中国の医薬の神さんを祀ったのがはじまりです。
 境内の看板の絵に張子の虎の絵がありますし、拝殿の所にも張子の虎が置いていました。
 江戸時代後期(1822年)、大坂でコレラが大流行しました。厄除退散として張子の虎を作った事に由来します。

 すぐ隣にはくすりの道修町資料館がありますが、日曜日は休館日な上、現在、コロナの影響で、予約制で会員しか入館できないため、中には入れませんでした。
 コロナが収まった時に、資料館を訪問したいです。

 

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