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国営平城宮跡歴史公園・朱雀門ひろば
9月に奈良へ行った話です。
平城京の内裏(平城宮:今でいいますと皇居と霞ヶ関が合体した物)の跡地は、現在は国営平城宮跡歴史公園になっています。
朱雀門ひろばにあります施設を散策しました。
遣唐使が使ったとされる船の展示がありました。
遣唐使に関する展示もありました。
山上憶良。学校の歴史では歌人で代表的な歌としと貧窮問答歌の人物で習いますが、遣唐使として唐へ渡っていたのは知りませんでした。
粟田真人。全く知らない人物でしたので「誰やねん」と思いましたが、凄い人でした。この人物については後述します。
平城宮から発掘された資料などを展示している所もありました。
木簡。当時、紙はありましたが、非常に高価だったため、普段は木簡を利用していました。
真面目な役所の文書だけでなく、落書きなども発見され、それを展示していました。今も昔も変わらないですね。
平城遷都は710年に行われました。時の天皇は女帝・元明天皇でした。聖武天皇の祖母にあたる人物です。
平城遷都を提案したのは遣唐使として唐に渡った粟田真人でした。
粟田真人は653年に留学僧として遣唐使に随行しました。
帰国後は還俗して高級官僚として働きました。
702年、33年ぶりに遣唐使の際、粟田真人が再度、唐へ渡りました。この時は遣唐執節使(天皇の名代)という立場でした。
この時の遣唐使は、倭国から日本になった事を伝えると同時に、先進国だった唐の文化や技術を吸収するのが目的でした。
663年に白村江の戦いで日本が大敗した後、天智天皇、天武天皇、持統天皇は唐の脅威に怯え「日本がやばい。近代化せねば」と必死になって律令国家を形成していきました。その過程で「日本」という国号が生まれたといわれていますし、「天皇」という称号も生まれたと言われています。
倭国から日本になっていく過程を高級官僚として関わってきた粟田真人でしたが、それでも唐に圧倒されたと思われます。
粟田真人は帰国後、元明天皇に「日本が認められるためには長安城を手本にした都を作りましょう」と提案しました。
国家の威信と天皇の権威を示すため、平城京の建設がはじまりました。708年です。たった2年という無茶振り(無茶すぎる!!)ですが、なんとか710年に完成させました。
粟田真人は、唐の皇帝・則天武后に気に入られました。歴代の中華帝国の皇帝で唯一の女帝です。
唐の則天武后と書きますと、歴史好きな人から「則天武后が皇帝だった時は、国号は唐ではなく、周だったぞ」と突っ込まれそうですが、その突っ込みはなしでお願いします。
遣唐使は唐につきますと、挨拶のため皇帝に謁見します。そのため粟田真人が則天武后と面会するのは驚きませんが、則天武后に気に入られたとなると驚きですね。
留学僧として唐に渡った際、言葉や文化、振る舞いを学んでいたため、則天武后に気に入られる振る舞いをしたかもしれないですね。
お土産屋に女性のイラストがあったお菓子がありました。平城京遷都を行った元明天皇をモデルにしているかもしれないですね。