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飛鳥寺。現存する日本最古の仏像・飛鳥大仏。奈良県高市郡明日香村

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 以前、飛鳥寺へ行った時の話を書きます。飛鳥寺は蘇我馬子により596年に創建されました日本初の本格的な仏教寺院です。
 現在ではこじんまりしたお寺ですが、創建当初は現在よりも20倍の敷地に、塔を中心に北・東・西に金堂があり、周囲に回廊があったと言われています。豪華な造りです。
 そして蘇我氏を滅亡に追いやる乙巳の変の首謀者の中大兄皇子と中臣鎌足の出会いの場としても知られています。
 中大兄皇子が蹴鞠に夢中になり思わず沓(くつ)を飛ばしてしまった所、中臣鎌足が拾った話です。蘇我馬子が創建したお寺での出会いがキッカケで、蘇我馬子の孫・蘇我入鹿が殺される。不思議な巡り合わせですね。

 飛鳥寺には現存する日本最古の仏像と言われています飛鳥大仏があります。609年に完成されたと言われています。奈良の大仏よりも150年ぐらい古いです。
 仏像の顔が面長で目がアーモンド状で口元が微笑んでいます。アルカイックスマイルと呼ばれる物で北魏様式の仏像に見られます。
 この頃の仏教は朝鮮半島から伝わったため、北魏様式が朝鮮半島を経由して日本に伝わったと考えられます。
 アルカイックスマイルは古代ギリシャ彫刻に見られます。古代ギリシャのアルカイックスマイルと北魏様式のアルカイックスマイルとの関連性ですが、ゼロとは言い切れない所があります。
 2300年前にアレキサンダー大王が中央アジアを領土に収めました。そしてギリシャ文化が中央アジアに伝わりました。仏教はインドから中央アジアを経由して中国大陸、朝鮮半島、日本へと伝わっています。
 ギリシャ文化と仏教が中央アジアで合流しました。そのため中央アジアで発見された仏像はギリシャ彫刻の影響を受けたガンダーラ仏像(西洋人っぽい仏像)があります。その時期にアルカイックスマイルも伝わった可能性がありますので、関連性はゼロとは言い切れません。

 さて飛鳥大仏は日本最古の大仏と言われていますが国宝ではなく重要文化財です。その理由は修復が多い上、当時の部分が残っているのが僅かだからという理由です。
 887年と1196年の落雷により本堂が火災に遭い、この時、大仏が熱で溶けてしまい、その後、修復されました。当時は避雷針がないため落雷のよる火災の被害が絶えませんでした。
 現在の本堂は江戸時代後期に再建された物です。

 ところで国宝の基準は文化財の素人の私にはわかりませんが、修復された物で国宝になっています代表例が奈良の大仏です。
 奈良の大仏の場合、奈良時代の物は台座のみです。台座から下半身部分は鎌倉時代、上半身は江戸時代に再建されたものです。
 平安時代末期の1180年、平重衡による南都焼討により東大寺は火災。大仏が熱で溶けてしまいました。鎌倉時代に再建されるものの、戦国時代の1567年に松永秀久による東大寺への放火により、大仏が溶けてしまいました。江戸時代に再建されました。
 他にも855年の大地震によって大仏の頭がとれてしまう事件も起こりました。奈良の大仏の受難の歴史と同時に、天災や人災からいかに文化財を守る事の大変さを感じますね。

 飛鳥大仏ですが近年の調査で、当時の部分がもっと残っている事が判明したようです。
 日本最古級の仏像「飛鳥大仏」、国宝に返り咲くか 最新研究で顔の成分が7世紀と判明(2018年10月27日 産経新聞のネット記事)

 蘇我馬子といえば仏教を推し進めた人物として知られています。
 神道を司る豪族・物部守屋との対決が有名です。以前のブログ「聖徳太子が建立した大聖勝軍寺。蘇我と物部の戦場跡」にも書きました。
 推古天皇の時代、蘇我馬子、聖徳太子は仏教を規範とした統治を考えていました。蘇我馬子、聖徳太子は古代の近代化を行った人物で、従来の神道を規範とする政治を刷新する意味でも仏教を規範とする国家を目指していたと言われています。

 ところで仏教を規範とする国家は古代日本だけではありません。
 聖徳太子よりも遡る事、約200年。中国大陸に北魏という国があり仏教を規範とする鎮護国家を目指していました。
 この時代、中国大陸では五胡十六国時代で、各地に国が乱立するという群雄割拠の時代でした。
 三国志の後、北方遊牧民族が南下し、北方遊牧民族による国ができました。そのうちの1つが北魏です。
 漢民族による統治は儒教を規範としていましたが、北方遊牧民族にとって儒教を規範とすると漢民族に勝てません。そこで刷新するためにも仏教を利用するのが好都合でした。
 ところで「北魏=仏教」と書きますと、北魏でも廃仏毀釈があったという突っ込みが出そうなので、それも触れます。武帝の時代、武帝は道教を規範とした国家を目指したため廃仏毀釈を行いました。
 しかし、次の皇帝・文帝の時代に仏教を復活させ、世界遺産になっています雲崗石窟が建立されました。その北魏の仏像の様式が日本に伝わりました。飛鳥大仏です。

 仏教による鎮護国家は唐の時代もそうでした。
 唐は鮮卑族の王朝だったため、儒教ではなく仏教を規範とした鎮護国家を目指しました。則天武后が良い例です。
 その則天武后の鎮護国家を見習ったのが聖武天皇と光明皇后です。2人の娘が孝謙(称徳)天皇です。出家のまま天皇になった唯一の人物です。
 称徳天皇は弓削道鏡と怪しい関係になりました。道鏡ですが物部一族です。飛鳥時代は神道を司る家系の物部氏でしたが、150年もたちますと道鏡という僧侶が登場しました。
 ちなみに称徳天皇は蘇我氏を滅ぼした首謀者・中大兄皇子と中臣鎌足の子孫です。
 中大兄皇子(天智天皇)→元明天皇→文武天皇→聖武天皇→称徳天皇。中大兄皇子の玄孫です。
 中大兄皇子(天智天皇)→持統天皇→草壁皇子→文武天皇→聖武天皇→称徳天皇。中大兄皇子の来孫です。曾祖父の草壁皇子が叔母(元明天皇)と結婚したため、少しややこしい家系図になっています。

 そして称徳天皇は中臣鎌足のひ孫であり、玄孫です。父親の聖武天皇は叔母と結婚したため、少しややこしい家系図になっています。
 父親の血筋をさかのぼりますと、中臣鎌足→藤原不比等→藤原宮子(文武天皇の后)→聖武天皇→称徳天皇
 母親を見ますと中臣鎌足→藤原不比等→藤原光明(聖武天皇の皇后)→称徳天皇です。
 蘇我氏と敵対していた物部一族の弓削道鏡、その蘇我氏を滅ぼした首謀者・中大兄皇子と中臣鎌足の子孫の称徳天皇。不思議な巡り合わせで結びついた2人と思わせる感じですね。

 飛鳥寺と飛鳥大仏。1400年前の歴史に思いを馳せながら、その後の歴史の不思議な巡り合わせを見ていきますと、さらに面白く感じられますね。

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