Blog

聖徳太子が建立した大聖勝軍寺。蘇我と物部の戦場跡。大阪府八尾市

ブログ

 10月16日、聖徳太子の時代、蘇我氏と物部氏との争いがありました。その戦場跡と言われる場所へ行きました。
 学校の歴史では、仏教を広めたい蘇我馬子、神道を守りたい物部守屋との戦いと習いました。
 日本書紀の敏達天皇の章では、蘇我馬子が崇仏で仏教を広めようとしたが、疫病が流行りました。
 物部守屋は異国の宗教を導入したためだと主張し、両者は対立しました。敏達天皇が崩御した時、葬儀の場でも言い争う始末でした。

 仏教と疫病。蘇我馬子の父・蘇我稲目と、物部守屋の父・物部尾輿との間でも同じような争いがありました。日本書紀の欽明天皇の章にありますが、蘇我稲目が百済王から伝わった仏像を大事しお寺を建立しましたら、疫病が流行ったため、祟りと言われ、お寺は燃やされ仏像は川に投げ込まれました。

 ただ仏教と神道との対立は表向きであって、実際の所は覇権争いのために宗教が使われたとも言われています。

 さて、八尾は物部の本拠地があった所です。蘇我馬子は物部を滅ぼそうと決め、物部の本拠地を攻めました。この時、聖徳太子をはじめとする皇族は蘇我側にいました。
 日本書紀の崇峻天皇の章に戦いの様子があります。最初は蘇我が劣勢でした。物部氏は軍事部門を担う豪族でした。そのため姓(かばね)は大連(おおむらじ)でした。そのため物部は強くて当然です。
 しかし、聖徳太子が願掛けを行いました。すると形勢は逆転し総大将の物部守屋は流れ矢に当たり、総大将を失った物部側は総崩れ。蘇我氏の勝利になりました。

 戦場があった場所に聖徳太子は大聖勝軍寺を建立しました。それ以外にも大阪に四天王寺を建立しました。
 お寺の門の前には聖徳太子の像があります。境内を散策しますと太子堂があります。太子堂は物部守屋は流れ矢に当たり戦死した場所と言われています。

 聖徳太子。この戦争についてどう思ったのか。敬虔なる仏教徒で殺生を好まないため、悲惨な戦争を起こしてしまったと悩んだのか。
 それとも案外、血の気が多く、仏教を排斥する物部を倒したということで歓喜して、大叔父の蘇我馬子と一緒に勝利の酒を酌み交わしたのか。その辺りはタイムマシンに乗って聖徳太子本人に聞かないとわからないですね。

Share

Category

Archive

Recent posts