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臣下の諫言を聞いた唐の皇帝・太宗(李世民)。

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 岸田新首相が誕生しました。ニュースでは「人の話をよく聞く男」と言われています。
 ところで元祖かどうかわかりませんが、「人の話をよく聞く男」といえば、唐の二代目皇帝・太宗(李世民)が挙げられます。そこで今日は太宗の話を紹介します。

 太宗は唐の二代目皇帝で598年に生まれ、649年に亡くなっています。598年は隋王朝の時代で、この年に超難関の官吏登用試験の科挙が始まりました。日本では推古天皇の時代で、蘇我馬子が権勢を振るう一方で、聖徳太子が遣隋使を派遣しようか考えた時期です。
 そして太宗が亡くなった649年。日本では蘇我氏の没落の大化の改新(645)のちょっと後になります。

 太宗は臣下からの諫言を積極的に聞く事にしました。そして良い諫言を行う者に対して褒美を与えました。さて諫言できるとなれば、臣下は言いたい放題いえるため、それを聞く太宗は「こいつ、生意気な」と怒りを抑えながら聞いていた事もあるようです。相当なストレスだったと思われます。誰しも「あなたは間違えている」と言われたら、例え、それが真っ当な指摘でもムッとする事がありますし、それが続きますと「俺のどこが悪いのだ。ふざけるな!!」となります。

 しかし、太宗が臣下の諫言を真面目に聞いた理由は、歴代の中華皇帝で自信過剰になって暴走したため、身を滅ぼしたり、国家を滅ぼしたりした人物がいました。太宗は、自分はそうならないようにするため、自分を諌めてくれる人を求めていました。
 そして臣下からみますと「自分の意見を聞いてくれる皇帝陛下」となり、忠誠心と士気はあがります。

 もちろん臣下の諫言を真面目に聞くのと、諫言の内容を取り入れて実行するのは異なります。それでも身を滅ぼしたり、国を滅ぼすという重大な誤った判断を行わなかったのは、太宗自身が大変優秀だった事が言えます。

 ただ太宗がいつも正しい判断をしていたかといえば、そうでもないようです。
 隋王朝の時代から高句麗攻略がありました。東北部の脅威だったため高句麗を攻め落として脅威を取り除こうとしました。しかし、隋の皇帝・煬帝は3回高句麗を攻めて失敗し、それが煬帝に対する反乱が起き隋は滅亡しました。
 唐になっても高句麗を東北部の脅威として捉えていましたが、高句麗攻略はできませんでした。「高句麗攻略は危険」と諫言した臣下がいたのかどうか、わかりません。太宗は高句麗遠征を2回行いましたが2回とも失敗に終わりました。高句麗攻略ができたのは太宗が亡くなった後の話です。

 ところで太宗と臣下との問題をまとめたものとして「貞観政要」があります。
 この「貞観政要」は、あの徳川家康が熟読しました。徳川家康も部下の意見を聞いたと言われています。もちろん全て採用したわけではありませんが、家臣としては「自分の意見を聞いてくれる君主」という事で、家臣の忠誠心と士気は上がりますね。
 もちろん徳川家康は重大な判断誤りをしなかったという点では徳川家康自身も優秀だったといえます。江戸時代の礎を作り75歳まで生きました。

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