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守屋塚。物部守屋の墓。大阪府八尾市

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 昨日のブログで蘇我と物部の戦場跡の大聖勝戦寺を紹介しました。
 今日は、その近くにあります物部守屋の墓(守屋塚)を紹介します。

 物部は軍事と祭祀を司る家系らしく、塚の前には鳥居がありました。
 この塚は物部守屋を葬った塚と言われており、江戸時代の文献には塚があったという記述があるようです。
 明治初期、当時の八尾は堺県でした。当時の堺県知事・小河一敏が立派な墓碑にするべく建立し、今のようなお墓になりました。

 余談ですが、堺県は今の大阪南部と奈良県全域を網羅する大きな県でした。堺県につきましては以前のブログ「奈良県が消えて堺県。奈良の大仏は大阪府? 明治時代の話」で紹介しています。

 戦場になりました大聖勝戦寺には守屋池があります。伝承では聖徳太子の側近だった秦河勝が、鏑矢で射抜かれて戦死した物部守屋の首をとって、首を洗ったとされています。生々しいですね。
 そして必勝祈願で聖徳太子が建立した大聖勝戦寺。十七条憲法の「和を以て貴しと為す」とは程遠い感じがします。

 ここで疑問が出てきます。蘇我と物部の戦いという視点で見ますと豪族による権力闘争です。
 ところで蘇我氏は皇室と婚姻を通じて親戚関係でした。推古天皇の叔父は蘇我馬子です。そして、この戦いは推古天皇の承認があった上、聖徳太子をはじめとします数人の皇子が参加しました。蘇我を官軍という見方をしますと、物部は朝敵という見方もできなくはないです。
 しかし、明治初期は廃仏毀釈がありました上、国家神道が登場したため、神道を司る家系だった物部守屋を祀ろうとした。そんな時代背景があったように思えます。

 ところで蘇我氏と皇室は親戚だと書きましたが、蘇我馬子と物部守屋も親戚です。日本書紀の崇峻天皇の章に、蘇我馬子の妻は物部守屋の妹と書いているためです。政略結婚といった感じですね。

 日本書紀を見ながら蘇我と物部の戦いを見ますと、権力闘争、親戚同士のドロドロな戦いは、今も昔も変わらないといった感じですね。

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