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物部守屋は廃仏派ではなかった? 樟本神社(日羅寺)。大阪府八尾市
10月16日、八尾にあります物部守屋ゆかりの地を散策しました。
八尾は物部の本拠地があった場所です。そこに樟本神社(日羅寺)があります。括弧をつけていますので、樟本神社の境内に日羅寺がありますためです。
ところで日羅寺は「日羅」という僧侶が創建し住んでいた事に由来します。
日本書紀の敏達天皇の章に、日羅の事が紹介されています。
日羅は百済で生まれた日本人です。日羅の父親・火葦北阿利斯登は、大伴金村の命令で百済に派遣されて、百済に住んでいました。
敏達天皇は日羅は賢くて勇気があるということで、日本に呼び寄せました。この時、百済からお目付け役も付いてきました。
そして日羅は八尾に住みました。そして敏達天皇に対して、任那復興に対して積極的でない百済を威嚇するような内容を上奏しました。
それを知った百済から付いてきたお目付け役は「けしからん」となり、日羅を殺害しました。怖いですね。
ただ、日本書紀には日羅が僧侶だという記述は見つかりませんでした。私の見落としかもしれませんが。
ところで樟本神社が配布している資料には「物部守屋は僧侶・日羅を保護した」と書いていました。
日羅寺があります所は物部守屋の本拠地があった場所です。そのため物部守屋が排仏派とは言えないとしています。
物部守屋は海上物流として八尾を押さえていたため、蘇我馬子は物部守屋から奪いとろうとしていたと書いています。
飛鳥から大阪方面に出る際、大和川があります。江戸時代初期の付け替え工事のため、堺に流れるようになっています。
しかし、当時は八尾、東大阪、四條畷市を流れて、河内湾につながっていました。まさに八尾は海上交通の要所でした。
仏教と神道の戦いというのは後世に誇張された部分で、実際には利権争いだった可能性が考えられます。
物部守屋は廃仏派だったのか、実は違っていたのか。タイムマシンに乗って確認しないと真実はわかりませんが、色々、想像(妄想?)するのも歴史の楽しみの一つですね。