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藤井寺の地名になった葛井寺(ふじいでら)。大阪府藤井寺市

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 11月23日、河内散策という事で葛井寺へ行きました。

 境内を散策しました。
 線香を寝かせていました。線香を立てるか寝かせるかは宗派によって違うようです。
 お手洗いの看板は「烏枢沙摩閣」(うすさまかく)と書いていました。フリガナがないと読めないですね。
 烏枢沙摩はトイレの神と言われています。トイレの神がいる場所「烏枢沙摩閣」
 併設されています喫茶店がありました。店名をみますと梵字が併記されていました。まさにお寺ですね。

 このお寺は歴史は古く飛鳥時代ぐらいまで遡ります。お寺の説明書きを大雑把にまとめると以下のとおりです。
 渡来系で百済王族の末裔の葛井氏が創建したお寺と書いています。葛井氏の氏寺です。そして725年、聖武天皇の勅命で観音菩薩が奉納され、行基によって開眼供養がされました。その後、衰退したようですが、平安時代初期、阿保親王によって再興され、また衰退したものの、1096年、近隣に住んでいた藤井安基が荒廃した伽藍を再建した事から藤井寺となったと事です。
 葛井氏が建立したお寺を藤井氏が再建したから藤井寺。ちょっとややこしい経緯ですね。

 葛井氏についてですが、当初は白猪の姓を名乗っていました。
 日本書紀の欽明天皇30年、欽明天皇は胆津(いづ:王辰爾の甥) に対して「戸籍から漏れている人がいて課税を免れている。白猪田部の調査を行うように」と命令を出しました。胆津が正確な戸籍を作成したため、その功績で白猪の姓が与えられました。胆津の叔父の王辰爾は百済王朝の末裔とされています。そして720年に白猪から葛井に姓が変えました。

 平安時代初期、阿保親王が再興しました。葛井氏と深い関係があります。阿保親王の母親は葛井氏出身だからです。
 余談になりますが、阿保親王の父親は平城天皇です。平城天皇といえば薬子の変を連想しそうです。平城天皇の皇后は、薬子の変の藤原薬子の娘ですが、阿保親王の母親ではありません。他にも阿保親王といえば承和の変の時、「俺はかかわりたくない」と言って密告した人物でもあります。

 学校で習う日本史。それぞれバラバラでも意外な所でつながっていますね。

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