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日本に帰国できなかった遣唐使の留学生・井真成。大阪府藤井寺市

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 10月23日、近鉄・藤井寺駅の南側の商店街を通りました。藤井寺市商工会の入口に井真成(いの まなり)の像がありました。
 阿倍仲麻呂達と一緒に留学生として唐へ渡り、時の皇帝・玄宗に仕え、帰国を間近に控えた36歳で亡くなった人物です。藤井寺出身といわれていて、藤井寺市のマスコットキャラは「まなりくん」です。
 藤井寺市公式キャラクター「まなりくん」プロフィール(藤井寺市役所のサイト)

 長年、忘れられた存在でしたが、2004年に西安(唐の都・長安)で墓誌が発見されました。
 余談ですが、この墓誌は建設業者がショベルカーで不法工事をしていた時、偶然発見されたもので、こっそりと民間の古物市場に売りに出されました。それを聞いた西北大学歴史博物館の賈麦明さんが古物市場へ行き、貴重な発掘物を安く買い上げたという話があります。不法工事に、掘り出し物を現金化したい業者。困った業者ですが、大事な発掘物が無事、保護されたのは幸いですね。
 余談につきましては在唐の日本留学生井真成墓誌の発見と新研究(国際日本文化センターの論文)に書いています。

 墓誌が見つかった事で、葬られた人物が井真成、国号が日本という事がわかりました。700年代になりますと中国大陸では「倭国」ではなく「日本」という認知になっている事がわかります上、日本も国号として「日本」を使っていた事もわかりますね。

 井真成の墓誌のレプリカは、藤井寺市立・生涯学習センター(アイセル シュラ ホール)に展示されています。
 墓の蓋(レプリカ)に刻まれた字を見ますと篆書体でした。隷書体や楷書でないため、読めない字があります。墓誌(レプリカ)には「日本」と刻まれていました。レプリカであっても歴史を感じる事ができました。

 井真成が藤井寺出身という根拠は「井」という姓から推測されたためです。
 唐では姓が1文字でしたので日本の留学生で唐風の姓を名乗っていた可能性があります。日本だと「井」という1文字の姓がないため、「井」がつく2文字の姓が考えられます。その中で出てきたのが葛井(ふじい)と井上の姓です。
 葛井氏は一昨日のブログ(藤井寺の地名になった葛井寺)で紹介しました百済王の末裔にあたる家系です。この2つの姓は藤井寺周辺の有力者でしたため、藤井寺出身ではないかと言われています。

 ところで遣唐使は船旅だけ見ても命がけです。聖徳太子の時代は朝鮮半島を沿った比較的安全航路が使えました。しかし新羅との関係が悪化したため、朝鮮半島に沿った航路が使えなくなり、荒波の東シナ海を横切る航路を使わざるえなくなりました。遣唐使は4隻にわけて出発しますが、2隻戻ってくれば成功というぐらい危険な航海でした。4隻にわけるのは、まさにリスク分散です。
 そして無事、唐へ渡れても、長安にたどり着くまでに山賊に襲われるかもしれないですし、日本にない伝染病にかかるかもしれません。今のような安全な旅ではありませんでした。
 そんな中、遣唐使で唐へ渡り、生きて帰った人達は運にも恵まれた人だといえますね。

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