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西村市郎右衛門の碑石。大和川付け替えの負の側面。大阪府八尾市。

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 物事には二面性があります。江戸時代初期、大和川の付け替え工事によって四條畷周辺では洪水による氾濫がなくなった上、湿地帯を活用して新田開発や綿花栽培を行い、収穫された綿花を加工してできる河内木綿という地場産業も生まれました。
 以前のブログ「鴻池新田と鴻池新田会所」で新田開発の話は紹介しました。
 しかし、大和川付け替えは、明るい側面ばかりではなく負の側面もあります。その負の側面を取り上げる事にしました。

 10月30日、八尾市内を散策していますとJR関西線・志紀駅付近。西村市郎右衛門の碑石を発見しました。西村市郎右衛門は弓削村の庄屋でした。
 江戸時代初期の大和川付け替え工事によって、旧大和川流域だった地域では農業用水の確保が難しくなりました。
 西村市郎右衛門が新大和川から水を引くように求めましたが許可が出ませんでした。そんな折、干ばつが起こりました。
 幕府からの許可はでてきないが農民を守らなければならない。そんな責任感と使命感から西村市郎右衛門は無断で水を引く事を決断しました。
 農民は救われたものの、無断で工事を行ったため、西村市郎右衛門は処刑になりました。

 その後、西村市郎右衛門の霊を慰めるため、この地域では盆の時期には功念仏踊を行うようになりました。
 負の側面。他にも新大和川流域で、耕作地だった場所が川になるため、反対運動も起こりました。

 社会全体として利益になる事でも、それによって犠牲になる人もいる事を西村市郎右衛門の碑石は物語っています。全ての人が満足する政策を行う事の難しさを感じますね。

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