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鴻池新田と鴻池新田会所。大阪府東大阪市

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 小出しに過去に行った所を紹介しています。今週は河内の話として鴻池新田の話を紹介します。
 JR片町線の駅名にもなっています「鴻池新田」。名前の通り鴻池家が開墾を行った新田です。

 江戸時代初期まで、大和川は堺ではなく、河内の方向に流れていました。今の東大阪市、大東市辺りに池や湿地帯ができていました。
 一度、大和川で洪水が起こりますと、すぐに河内が氾濫を起こしていましたので、住民が幕府に対して大和川の付け替えを願い出ました。
 しかし、大和川の付け替えによって不利益を被る人たちからは反対の声があがりました。家や田畑が川になってしまう人にとっては死活問題です。
 すったもんだの末、1703年に幕府が大和川付け替え工事を決定しました。幕府は工事費用が多額になっても、新田開発による収益の方が上回ると考えたようです。

 1704年に大和川の付け替えが完了し、今まで川や池、湿地帯だった場所で新田開発が行われるようになりました。工事期間は8ヶ月。重機のない時代だけに驚きの早さです。その時、新田開発を行った豪商の1つが鴻池家でした。

 「新田」なので水田を連想しそうですが、水田以外の農作物の畑の開墾も「新田開発」と呼ばれていました。
 鴻池新田をはじめとします河内の新田開発では、米と綿の栽培が行われました。綿の栽培により河内木綿が生まれました。

 さて鴻池新田の駅からすぐの所に鴻池新田会所があります。新田経営の拠点になった所です。
 会所は創設以来、増設や天災の修理などがあり、1853年に解体修理が行われました。それでも150年以上前の建物なだけに歴史を感じました。
 北側には船着場跡がありました。今はなくなっていますが、江戸時代は水路があり、水上交通で米をはじめとした農作物を運搬していました。
 戦争でも空襲を免れました。たまたま地元の年配の方がいましたので話を聞きましたら「昔はこの辺りは田畑だけだったよ」でした。都会ではなかったので空襲を免れた可能性はあるかもしれないです。

 ところで以前の学校の歴史では、江戸時代は士農工商という身分制度があると教えられていました。
 しかし現在では士農工商は職業区別であって身分制度でない事から教科書から消えました。
 士農工商が身分制度だと教えられた時代でも、頭の良い中学生が鴻池新田会所へ行き、商人の鴻池家が農民を管理していた事の説明を見ると「教科書の記述はおかしい」と気づくかもしれないですね。

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