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「天皇といえども律令に従うべし」の長屋王邸宅跡。奈良県奈良市

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 しばらく更新が止まっていましたブログですが、今日から再開になりました。9月に奈良県へ行った話を書きます。

 奈良市内にあります商業施設「ミ・ナラー」の所に長屋王邸宅跡の説明書きがあります。
 長屋王は皇族(天武天皇の孫)で、謀反の疑いをかけられ自害した悲劇の人物です。

 この時代、皇族と藤原家が主導権争いをしていました。
 ただ、皇族と藤原家と綺麗に色分けできるかといえば、事情は複雑で、聖武天皇の場合、母親と妃が藤原家出身者(しかも2人とも藤原不比等の娘)でした。

 720年、実力者だった藤原不比等が死去。政権首班になったのは長屋王でした。
 最初の頃は藤原家と対立していませんでした。

 しかし火種をつくったのは聖武天皇でした。
 母親に「大夫人」の称号を贈ろうとしました。しかし律令には、そのような称号がなかったため、長屋王は「天皇といえども律令に従うべし」と撤回を求めました。
 そして妃の藤原光明を皇后にしようとしました。この時代、皇族女性以外は皇后になれませんでした。長屋王が撤回を求めました。

 そのため主導権争いをしていました藤原四兄弟(藤原不比等の息子達)との間で軋轢が生まれました。
 729年に謀反の疑いがかけられ、長屋王は追い詰められ自害しました。悲劇の人物です。

 長屋王邸宅跡。1989年の発掘調査で木簡が大量に出てきました。
 事務書類だけでなく、荷物の送り状までありました。木簡の仲には長屋王の豪華な生活が垣間見える内容もありました。
 冷蔵庫のない時代でしたが、氷室を持っていて、夏には凍りで飲み物を冷やしたりしていました。年収は現在のお金で数億円のようです。

 長屋王は鑑真を日本に招聘しようと鑑真に袈裟を送りました。
 袈裟に縫ってあった漢詩が「山川異域 風月同天 寄諸仏子 共結来縁」でした。
 その漢詩を読んだ鑑真は、日本行きを決意し、6度目の正直で日本に行くことができました。
 長屋王がいなければ、鑑真は日本に来ていなかったかもしれないですね。
 今年の初め、中国にマスクを送る際、この漢詩をつけた事で、中国で話題にSNSでは賞賛を呼びました。

 ところで「天皇といえども律令に従うべし」。似たような言葉がイギリスにもあります。「王といえども法に従え」です。
 1200初頭、イングランドの王はジョン王(失地王)でした。戦争に負けっぱなしでヨーロッパ大陸にあった領土は失いました。そのため失地王というあだ名がつけられました。
 その上、戦争で領土を取り戻そうして課税を行おうとしたため、諸侯から反発しました。そしてジョン王に対して「王権を制限する法に従え。さもなくば処刑するぞ」を迫り、命乞いしたジョン王は法に従う事にしました。その法はイギリス大憲章(マグナカルタ)と呼ばれる物です。1215年にできました。
 1600年代初頭、大法官だったエドワード・コークは、法を守らない国王に対して「王といえども法に従え」と主張しました。法の支配の確立です。

 日本の場合、コークの発言よりも900年近く前に、長屋王が法の支配を唱えていました。長屋王の場合、法の支配は実現できませんでしたが、イギリス大憲章よりも500年近く前に法の支配の発想があったのは凄い事ですね。

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