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古代の東アジアと中央アジアの結びつき。サマルカンドでの発掘物より
夏季休暇中、ウズベキスタンへ旅行しました。
近年、中国政府が推し進めています一帯一路政策と中国人観光客が多いため、ウズベキスタン滞在中、時々、現地の人から「ニイハオ」と言われました。
「一帯一路政策における中国と中央アジアの経済と外交について」という題名になりそうですが、難しい国際政治や国際経済の話は専門家にお任せします。
そこで今回は、古代から中国大陸・朝鮮半島と中央アジアとの間では結びつきがありましたので、古代の話を書く事にします。
古代より都として栄えていましたサマルカンド。サマルカンドの歴史を展示していますアフラシャブ博物館へ行きました。
博物館には韓国のODAによる支援のプレートが張っていました。「韓国がなぜ?」と思いましたが、展示されてますフレスコ画を見て理由がわかりました。
7~8世紀の巨大なフレスコ画。そこには唐や朝鮮半島(高句麗・新羅)からの使節団が王に接見している様子が描かれていました。
韓国のODAによる支援があったが理解できました。
フレスコ画には日本の使節団は描かれていません。誤解のないように書きますと「古代・日本の外交の遅れ」と言うつもりは毛頭にありません。
日本は大陸とは海を隔てているため唐へ行くのは命がけです。当時の船舶で航海技術が発達していない状態ですと、船が難破する事があったためです。
実際、遣唐使のために派遣された人達が乗った船が難破し、帰らぬ人になったり、命は助かっても阿倍仲麻呂のように帰国できない人もいました。
中国大陸に上陸できても、そこから長安(現・西安)までは長旅です。上海から西安まで飛行機で2時間以上の距離です。ようやく長安に到着といった感じです。
日本から見ると終着点の唐の都の長安ですが、大陸の視点ですと中央アジアへの玄関口にすぎません。
8世紀の聖武天皇の時代、シルクロードの産物が日本に渡ってきましたため正倉院の宝物になっています。奈良の大仏の開眼を執り行ったのはインド出身の僧侶・菩提僊那でした。
そのため朝廷は中央アジアの存在は認識していたと考えられます。
ただ、朝廷が中央アジアへ使節団を派遣した話はありません。当時の日本の外交は朝鮮半島や中国大陸の動きを見れば良かった時代でした。
そして遣唐使の派遣は20年に1度でしたので、とても中央アジアへ使節団を派遣する事は考えれなかった事です。
その一方で2100年前の漢王朝の武帝時代に、大月氏国との同盟を結ぶため、張騫が中央アジアへ派遣されました。当時の漢王朝にとって中央アジアは未知の地域でしたが、張騫によって情報がもたらされ、中央アジアに目を向けるきっかけになりました。実際に中央アジアへ進出をおこなったのは張騫の大月氏派遣から200年後です。この時、西域へ向かったのは班超です。「虎穴に入らずんば虎児を得ず」を言った人物です。
その後も中央アジアとのつながりはありました。
4世紀、インド出身の貴族を父に、亀茲(クチャ・現在の中国新彊自治区)の王族を母として生まれたのが名僧・鳩摩羅什(344年~413年)です。
五胡十六国時代で中国大陸は群雄割拠でした。仏教を中心とした国家を目指す所もあり、鳩摩羅什を求めて戦争が起こったぐらいでした。
語学の天才でもありました鳩摩羅什はインドの経典を大量に漢訳し、中国仏教の基礎を築きました。
629年、三蔵法師・玄奘がインドへ向かった際、中央アジアは唐の支配下ではありませんでした。しかし、帰国した645年には中央アジアは唐の支配下になりました。日本ですと大化の改新が始まった時です。
余談ですが法華経の翻訳で旋律も大事にした鳩摩羅什は「観世音菩薩」と訳しましたが、玄奘は正確な訳にこだわり「観自在菩薩」と訳した話があります。
751年、タラス河畔の戦いでアッバース朝に敗れ、唐は中央アジアから撤退しました。
ちなみにタラス河畔の戦いで唐軍の指揮官の1人が高句麗出身の高仙芝です。これだけで朝鮮半島から中央アジアは陸続きで心理的に近いという証拠にはなりませんが、唐が出身地を問わず人材登用した事と大陸国家の規模感の違いは感じられますね。
海洋国家・日本にいますと大陸内部の様子が見えないだけに、中央アジアの国へ行きますと、思わぬ発見がありますね。