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李白はキルギスタン出身だった?
高校の漢文で、唐の時代の詩人・李白を習いました。李白の出生地の有力候補が出てきましたので、その話をします。
以前から李白は新彊辺りの出身だと言われていましたが、最新の研究でキルギスタン出身が浮かび上がってきました。
幼少の頃、蜀に移り住んだといわれています。蜀は今の四川省にあたります。
当時はキルギスタンは唐の影響が及ぶ領域でしたので、キルギスタン出身だった事は、十分に考えられます。
751年にタラス河畔の戦いで、唐とアッバース朝が激突し、唐が敗れるまで、キルギスタンは唐の影響下にありました。
李白が活躍しました唐の時代、皇帝は漢民族ではなく、鮮卑族と呼ばれる北方騎馬民族でした。
唐では民族や国籍に関係なく有能な人材登用を行いました。李白もその1人でした。
李白の時代、漢詩が発展しました。理由のひとつには李白をはじめとした、非漢民族の知識層のお陰と言われています。
古代、漢字は言葉の違う者同士が意思疎通を行うための記号でした。漢民族同士、色々な言葉がありますため、意思疎通の手段は漢字でした。
しかし漢字の数は限られていましたため、文字による表現が制限され、感情に乏しい文章でした。そして漢民族が話す言語そのものも感情表現が乏しくなったと言われています。
ところが李白をはじめとした、外国語を操る知識層が、母国語の豊かな感情表現を漢字で表わせないかと試み、その結果、漢字の感情表現が豊かになったと言われています。
李白は杜甫、孟浩然とも交友がありました。お互い刺激しあう仲だったため、漢詩全盛期を迎えました。
孟浩然といえば「春眠暁を覚えず」が有名ですね。
ところで唐の時代、有能な人材登用を行っていましたため国籍も関係ありませんでした。
日本人の阿倍仲麻呂です。元々、留学生として唐に渡りましたが、スーパー・ウルトラ難関な試験の科挙に合格し、役人として働きました。
李白の友人でもありました。でも、阿倍仲麻呂は有能すぎて、皇帝が手放したくなかったため、なかなか帰国が許されませんでした。
阿倍仲麻呂は帰国が許されたものの、帰りの船が難破して中国大陸に戻ってしまい、とうとう帰国ができませんでした。
李白は阿倍仲麻呂が帰国できずに都(長安)に戻っている事を知らずに、お互い、会うことがありませんでした。
唐の時代、どんな様子だったのか知りたくなりますね。