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4月9日は全国統一の計量単位(度量衡)の日。文武天皇。
702年4月9日は文武天皇が日本で最初の統一の計量単位を定めた日です。
それまで全国バラバラだった長さや重さの単位を統一しました。
当時の日本は近代化を目指して、国家体制の改革と、唐の制度を導入していった時代でした。
701年に大宝律令の施行、712年古事記の完成といった流れです。
この時、文武天皇には強い味方がいました。祖母の持統上皇、持統天皇時代から朝廷を支えた藤原不比等の存在でした。
ところで持統天皇ですが、怖い女の顔を持っています。
夫の天武天皇が健在だった時、後継者問題で起こりました。持統天皇は「わが息子、草壁皇子を次期天皇に」と主張していました。
しかし天武天皇は、別の后との間で生まれた大津皇子を後継者にしようと考えていました。
大津皇子は体格が立派な上、頭脳明晰だったため、天武天皇の期待が大きかったです。一方で草壁皇子は凡庸で病弱だったようです。
しかし持統天皇からすると「私の息子を天皇に」と執念を燃やしていました。
天武天皇が崩御した後、後継者問題が起こりました。持統天皇は、大津皇子を謀反の疑いをかけて自殺へ追い込みました。怖いですね。
しかし、大津皇子を自殺に追い込んでいる間に、草壁皇子は病死してしまいました。幸か不幸か草壁皇子は息子がいました。
この時、持統天皇は「孫を天皇にする」と執念を燃やし、孫が即位できる年齢になるまでは、私が天皇を務めると言い出し、天皇になりました。
天武天皇の崩御(686年)から持統天皇即位(690年)までの4年間、天皇が空位になっているのは、そのためです。
そして孫が大きくなった時、持統天皇は生前譲位をして、孫が即位して文武天皇になりました。日本初の上皇(太上天皇)の誕生でした。
皇極天皇の場合、生前譲位しましたが、当時は上皇という尊号はありませんでした。
かわいい孫のために、孫を支援する持統上皇。でも、孫の立場だった文武天皇はどうだったのか。
「祖母の期待に応えよう」と思っていたのか、それとも「うるせいババア。俺に干渉するな」だったのかは、定かではありません。
持統上皇が崩御し、文武天皇が祖母から自由(?)になったかと思えば、父親譲りの病弱だったため、若くして崩御しました。幸い子供がいました。
ここで天智系に皇統を譲りたくないと考えた文武天皇の母親(草壁皇子の后)は「我が孫を天皇にするのだ」と主張し、自ら即位しました。元明天皇です。
文武天皇を通して、当時の女性天皇の執念(?)の凄さを垣間見る事ができますね。