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江戸時代の儒学者・藤原惺窩の生誕の地。兵庫県三木市。

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 3月27日、三木市へ行きました。
 藤原惺窩。名前の「惺窩」(せいか)が読めないですね。
 説明書きの看板を見ました。藤原道長の子孫にあたる人物で、日本の近世儒学(朱子学)の開祖です。
 1561年、この地に生まれました。時は戦国時代です。父は別所長治に討たれ、京都に逃れました。
 そして豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、捕虜になって日本に来た朝鮮王朝の官僚で儒学者だった姜沆と交流をしました。
 その後、徳川家康に儒学を伝授しました。

 藤原惺窩の門下生の1人が林羅山です。学校の歴史で出てきますね。

 藤原と名乗っていますが氏(姓:せい)で、苗字は冷泉です。あの冷泉家と聞きますと公家を連想します。その冷泉家で、下冷泉家になります。
 藤原家(冷泉家)が三木にがいたのか。三木に所領を持っていた上、戦国時代になり戦国大名に所領を奪われないように三木に定住しました。

 朱子学。江戸時代の日本に悪影響を与えたと言われています。男尊女卑の発想です。
 朝鮮半島では李成桂が興した朝鮮王朝(李氏朝鮮)が朱子学を導入したため、男尊女卑が進みました。日本だと足利義満の時代ですね。
 日本は戦国時代まで比較的、男女同権でしたが、江戸時代に、朱子学を導入した影響で男尊女卑になってしまいました。

 朱子学は12世紀の南宋の儒学者・朱熹が、これまでの儒教に加え、理気二元論といった宇宙観などを取り入れた物として、まとめあげたものです。
 孔子時代の儒教は国家、人間関係など儀礼的な物でしたが、その後、道教、老荘思想、仏教などに影響された結果、朱子学が出てきました。
 そのため朱子学は孔子が「俺はこんな教えは説いていないぞ!」とびっくりする内容かもしれません。

 余談になりますが、藤原惺窩の説明書きの看板に1ヶ所、間違えがありました。
 「関白・藤原道長」です。摂関政治の代表的な人物として藤原道長が挙げられますが、実は関白にはなっていません。
 関白に準ずる内覧という役職についていました。入試問題の引っ掛け問題に出てきそうですね。
 藤原道長の日記は「御堂関白記」です。関白でないのに「御堂関白記」なので不思議ですね。

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