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豊臣秀次が開いた近江商人発祥の地・近江八幡。滋賀県近江八幡市
1月9日、近江八幡へ行きました。近江商人発祥の地と言われています。
近江八幡の歴史は桃山時代に遡ります。
織田信長が本能寺の変で討ち死にした後、豊臣秀吉は甥の豊臣秀次に近江の地を与えました。
豊臣秀次は何もなかった近江八幡に都市計画を立てました。織田信長亡き後、織田信長が発展させた安土の再興ではなく、隣の近江八幡で新たな都市建設を行う事になりました。隣の安土から商人を呼び寄せました。
近江八幡と安土ですがJRの駅は隣同士なので距離的には非常に近く呼び寄せるのは難しくはありませんでした。近江八幡では堀を作ったりすることで琵琶湖水運を使えるように整備しました。琵琶湖の海上交通の要所にしました。
今の名残りとして水郷が見ることができますし水郷めぐりもできます。
さらっと書きましたが、驚くべき事があります。この時、豊臣秀次は18歳でした。18歳の若者が都市計画を行うだけでなく近江の政治を行う。今の日本に例えますと18歳の若者が市長を行うのと同じです。凄いとしか言いようがないですね。
統治方法は織田信長が安土を統治した時の方法を踏襲しました。そのため楽市楽座が受け継がれました。楽市楽座ですが織田信長がはじめたように言われていますが、実際には織田信長の前に近江を統治していた六角定頼がはじめたことです。織田信長は真似ただけです。
楽市楽座を行うことで自由に商人が商売を行えるため商業が発展します。
近江八幡の中心街を散策することにしました。
近江八幡市立資料館へ行きましたら、豊臣秀次の紹介、近江商人の解説などの展示がありました。併設されています歴史民族資料館では民家や日用品の展示がありました。私事で恐縮ですが近江商人といえば、近江国の商人という認識しかありませんでした。
しかし、展示を見ていると興味深い事や知らなかった事を知ることができました。館内は撮影可能な所もありますが、SNSに掲載できない上、商用利用も承認が必要なため、写真掲載はいたしません。
近江商人は地元を大事にする事から、雇用する際は近江出身者を採用していました。
江戸をはじめとします主要都市に出店を構えて商取引を行う形態をとっていました。
旧・西川家住宅に入りました。近江商人の西川家の住宅だった場所です。近江商人は質実剛健と言われていますが、西川家には華やかな展示物がありました。豪商のすごさを感じました。近江八幡の地場産業は蚊帳の生産だという事を知りました。西川家も蚊帳の生産を行っていました。
私の不勉強で近江商人や近江八幡の魅力を伝えきれないですが、近江商人の事を深く知ろうというキッカケになりました。
余談になりますが近江八幡市の名前の由来を紹介します。
近江八幡が「市」になる際、当時、福岡県八幡市がありましたため同じ名称を避けるため「近江」という冠がつきました。
しかし福岡県八幡市は市町村合併で北九州市になり福岡県八幡市は消滅しました。その後、京都府に八幡市ができました。
そんな経緯がありますため冠がついていない京都府八幡市の方が、冠がついた近江八幡市よりも後に設立されたという現象が起こりました。
ただ、漢字の読み方はバラバラです。九州の場合は「やはた」です。京都の場合は「やわた」です。そして近江八幡の八幡は「はちまん」と読みます。