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徳川綱吉が再建した河内源氏の氏神・壷井八幡宮。大阪府羽曳野市
11月25日、南河内(羽曳野市)にあります壷井八幡宮へ行きました。この神社は河内源氏の氏神になります。
河内源氏を簡単に説明します。清和源氏から分岐したのが河内源氏です。
清和天皇(850~881)の孫・経基王が臣籍降下した際、源氏の姓を賜り源経基になったのが清和源氏の始まりです。
その息子の源満仲が清和源氏が兵庫県川西市に拠点を置いた話は、以前のブログ「清和源氏発祥の地。兵庫県川西市」で紹介しました。
源満仲の息子・頼信が河内守になったのを機会に河内に拠点を置いた事で、河内源氏と呼ばれるようになりました。それが1020年です。鎌倉幕府成立(*)の160年前の話です。
(*)以前は鎌倉幕府の成立は1192年とされていましたが、現在では1185年です。
征夷大将軍になったのを幕府成立とみるか、東国の自治権(守護・地頭の任命権の授与)を認められたのを幕府成立とみるかで学説がわかれているようです。中には承久の乱以降(全国統治)という説もあります。
壷井八幡宮ですが河内源氏の祖・源頼信の息子・源頼義、孫の義家が前九年の役の際、石清水八幡宮に必勝祈願を行いました。12年もの戦いの末、勝利しました。前九年の役は、実際の戦いの期間は9年ではなく12年の戦いです。12年は誤植ではありません。河内に八幡宮を勧請してできたのが壷井八幡宮です。1064年です。
だいぶ鎌倉幕府まで近づいてきました。源頼朝は、源家の玄孫です。
さて境内を散策しました。11月後半なので紅葉が綺麗でした。私が訪れた時は、ほとんど参拝客を見なかったため紅葉を独占して楽しみました。
社殿の屋根瓦を見ますと葵のご門がありました。葵の御門を見ますと思わず水戸黄門の主題歌「ああ人生に涙あり」を歌いたくなりそうです。
歌詞を書きたいですがJASRACの許諾なしには書けませんので、読者の頭の中で歌詞と旋律の演奏をお願いいたします。
現在の社殿は徳川綱吉が再建した物です。あの犬公方と言われた徳川綱吉です。
ところで徳川家と源氏との関係ですが、徳川家は自称・源氏です。新田源氏の末裔となっていますが、本当の所は謎です。
新田源氏。河内源氏の分家にあたります。新田源氏も清和源氏の流れをくむ家系です。
鎌倉幕府の倒幕の際、足利尊氏、新田義貞が登場しますが、2人とも河内源氏につながります。その新田源氏の末裔というのが徳川家康です。しつこいようですが、本当の所は謎です。
ところで徳川綱吉が壷井八幡宮の再建を行ったのは、ご先祖を大事にすると同時に、「徳川家は武門貴族の河内源氏の末裔だ」という権威づけの意味合いがありました。
よく教科書では貴族と武士は別物に扱われていますが、そんな事はありません。河内源氏は武門貴族で、源頼朝も生まれながらにして貴族です。だから権威があり、東国では担ぎ出すのに良い存在でした。
平家も平清盛が武士から貴族になったと言われていますが、元々、平家も貴族なので驚く話ではありません。
最近、youtubeで喜連川藩に関する解説動画が載り、少し話題になっています。
喜連川氏は、足利尊氏の次男・足利基氏の末裔です。足利基氏は鎌倉を統治するため鎌倉に拠点を置いた鎌倉公方の家系です。その末裔が喜連川氏です。
関ヶ原の合戦の後、喜連川氏が徳川家康に戦勝祝いをした事から、徳川家康は本物の源氏の支持を得たという形にするため、喜連川藩を厚遇しました。といっても石高は最大でも5000石で旗本並みですが、非常に格式の高い家柄として認めました。
壷井八幡宮と歴史と照らし合わせますと、徳川家と源氏の関係を垣間見えますね。