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清和源氏発祥の地。兵庫県川西市
6月28日、JR川西池田駅を通りました。源満仲の銅像があります。
清和源氏の源満仲が、この地に拠点を構えた事から、川西市は清和源氏発祥の地となっています。
源満仲は、清和天皇の曾孫にあたります。父親の代で臣籍降下して民間人になりました。
父親の源経基は軍事貴族として生きていく道を選んだようです。
平将門の乱の時、討伐軍の副将軍に選ばれました。ただ、軍を率いて平将門の討伐に駆けつけるが、到着した頃には、とっくに討伐が終わっていて、何も活躍しなかった話があります。藤原純友の乱の討伐軍にも加わりましたが、目立った功績は残さずに終わりました。
息子の源満仲は、摂津守を2回努めた後、多田の地(現在の川西市の多田神社)に拠点にしました。
摂津の地が気に入ったのか、それとも摂津に利権を得られたのかは、わかりませんが、川西市多田に拠点を置く事になりました。
ところで源満仲は、安和の変で、密告により、左大臣だった源高明を失脚させた張本人でもあります。
利権争いで、競合を倒そうと謀反の密告したら、連座で、源高明までが失脚しました。謀反人の中に、源高明の従者がいたためです。
源満仲に、源高明の失脚を狙っていたかどうかはわかりませんが、摂関家にとって源高明は邪魔な存在だったため、密告内容を口実に失脚させた可能性があります。
源高明は醍醐源氏(醍醐天皇の直系)のため、源満仲からみますと、遠い親戚にあたりますが、ほとんど赤の他人の感覚です。
平安時代は摂関家の藤原北家が強い力を持っていました。
藤原北家を中心に、貴族達は生き残りをかけて、権力闘争に励んでいました。
藤原北家に擦り寄って、勢力拡大を考えているのが清和源氏の源満仲や、その子孫でした。
安和の変でも、密告のお陰で、摂関家は大喜びだったため、源満仲の評価は上がりました。位階も上になりました。
ところで貴族と武家は別物のように思われがちですが、清和源氏は、軍事貴族でした。
そして位階をみますと、貴族の条件であります従五位下よりも上の位階を賜っています。
ところで、鎌倉幕府を開いた源頼朝につながるのは、源満仲の三男の源頼信の家系です。
源頼信は最終的に河内守になった時、河内に拠点を構えた事から、河内源氏と呼ばれている。
源頼信から源頼朝をはじめ、足利、武田、佐竹といった室町幕府や戦国時代に活躍する武将になっていきました。
私の勉強不足のため、わからない事がいくつかあります。
なぜ源満仲の父親の源経基は軍事貴族になれたのか。臣籍降下した後、いきなり軍隊をもらえたとは考えにくいためです。
そして父親が清和源氏の起点のはずなのに、なぜ源満仲なのか。
そして、足利、武田、佐竹といった室町幕府や戦国時代に活躍する武将になっていったのは、源満仲の息子の源頼信の家系で河内源氏です。
なぜ源満仲が清和源氏の系統の出発点なのか。
今回は清和源氏ついて消化不良の内容になりましたが、今後、わかり次第、ネタとして取り上げていきます。