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機織の専門家を祀った穴織宮・伊居太神社。大阪府池田市

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 6月28日、池田市にあります伊居太(いけだ)へ行きました。
 この神社は織物の工女・穴織(あやは)を祀った神社です。正確には応神天皇、仁徳天皇も含めて3人が祀られています。
 創建は仁徳天皇の時代まで遡ります。3~4世紀頃です。

 神社の由緒書きの内容を抜粋しますと、以下の経緯がありました。

 応神天皇の時代、まだ日本には織物や裁縫の技術はありませんでした。
 大王(天皇)であろうと、豪族であろうと、庶民であろうと、みんな同じような服を着ていました。

 応神天皇は織物や裁縫技術が遅れている事を痛感し、なんとかしようと考えていました。
 そんな中、来日して間もない中国系渡来人の阿知使主(あちのおみ)から「呉国には優れた織物技術がある」という話を聞きました。

 そこで応神天皇は阿知使主と、阿知使主の息子・都加使主に「呉の国の技術者を連れてきてほしい」と依頼しました。
 そして2人は天皇の勅使として呉国へ向かいました。ところが、最初、高麗(こま:高句麗)に到着ましたが、呉国の行き方がわかりませんでした。
 そこで高麗王に案内者を依頼すると、久礼波(くれは)と久礼之(くれし)の案内人を得て、呉国へ向かいました。
 呉国に到着すると、呉王は天皇からの勅使に大喜び。そして選りすぐりの四人の女性技術者で、裁縫技術の兄媛(えひめ)、弟媛(いろとひめ)。織物技術の穴織(あやは)、呉織(くれは)を日本に派遣する事になりました。そして一行は帰国しました。
 都へ戻る途中、兄媛は筑紫の胸形大神に仕える事になり、3人の女性技術者が都へ向かいました。

 都に戻りましたら、時の天皇は仁徳天皇(応神天皇の息子)になっていました。
 阿知使主は仁徳天皇から労われ、池田市付近の領地を賜りました。池田の地で機織と裁縫の業を興しました。

 3人の女性技術者のお陰で、日本の織物技術や裁縫技術向上し、多様な衣服が作れるようになりました。そして衣服による身分の区別も可能になりました。

 穴織(あやは)が亡くなった時、仁徳天皇は功績を称え、穴織宮・伊居太神社を建立しました。
 以後、歴代の天皇や幕府の将軍も敬愛する神社になりました。

 この話ですが、日本書紀の応神天皇の編にもあります。
 応神天皇は阿知使主と都加使主に工女を探し求めるように依頼。高麗へ行き、高麗王から久礼波と久礼之の案内人を得て、呉国へ向かった。兄媛、弟媛、穴織、呉織の4人が贈られたとなっています。

 ところで筑紫に留まる事になった兄媛ですが、応神天皇の妃・兄媛とは別人です。
 検索サイトで「兄媛」で検索しますと、応神天皇の妃と出てきますので、同一人物と思いそうですね。

 あと応神天皇は3~4世紀の天皇と言われています。
 当時、朝鮮半島の北部には高麗(こま)はありました。高句麗の事です。高麗という表記も使っていましたが、後の朝鮮半島に現れます高麗(こうらい)と区別するため高麗(こま)と分けています。
 呉は、おそらく三国志の孫権の呉国です。ただ、呉は280年に滅んでいますので、日本書紀の記述が正しいと仮定しますと、応神天皇は3世紀前半から半ばの人物かもしれないです。
 そしてで高句麗と呉では位置関係は全然違う事も注目できます。今の地理で表現すると北朝鮮経由、上海行きです。
 朝鮮半島の南にありました百済を経由せず、わざわざ高麗(こま)まで行ったのか不思議ですね。

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