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駿府と今川義元・徳川家康。静岡県静岡市
1月7日から1泊2日で駿府へ行きました。
2024年になっても1月28日までは昨年の大河ドラマ「どうする家康」のドラマ館が開館していますため、静岡浅間神社境内にありますドラマ館も行ってきました。
ドラマで登場した俳優、セットなどが展示されていました。あの黄金の甲冑もありました。
ところで駿府の地名の由来ですが、駿河国の国府(役所)の短縮形です。現在風にいいますと静岡県の県庁を短縮して「静庁」が地名になった感じですね。
JR静岡駅前には今川義元と幼少時代の竹千代(後の徳川家康)の像があります。そして今川義元の絵柄のマンホールがありました。
今川家は室町時代に駿河の守護大名になった家系です。それには歴史的経緯があります。
室町幕府を開いた足利尊氏。その長男の義詮の家系は将軍家になり、四男の基氏の家系は東国を統治する鎌倉公方になりました。しかし、鎌倉公方は幕府の言う事を聞かない存在でした。
そのため室町幕府は鎌倉公方を監視するため、親戚の今川家を駿河の守護大名に任命し、駿河へ派遣しました。
当時、守護大名は領地ではなく京都に滞在し、守護代が領地の統治していました。江戸時代の参勤交代の原型と言われています。
しかし今川家の場合は鎌倉公方の監視のため、京都に滞在せずに駿河に滞在していました。足利一門の高貴な武将がいる都市・駿河。今川家は京都とのつながりから文化人を京都から駿府へ呼び寄せたりして、小京都を形成していました。華やかな近代都市・駿河でした。
少し前までは今川義元の評価は「公家かぶれした軟弱な武将」でしたが、近年では文武両道の優れた武将になっています。
今川義元は桶狭間の戦いでは敗れましたが、桶狭間の戦いも用意周到だったと言われています。ただ、織田信長がそれを上回る事をしたため、今川義元は討たれました。
その上、後世の評価が「公家かぶれの軟弱武将」という、ひどい烙印まで押されてしまったという人物です。
大河ドラマ「女城主・直虎」の時、春風亭翔太さんが今川義元を演じていました。その時は、顔に白粉を塗り公家が着るような着物を身に着けて、いかにも公家という感じの演技でした。旧説の今川義元の姿です。
昨年の大河ドラマ「どうする家康」で野村萬斎さん演じる今川義元は文武両道の武将になっていました。新説の今川義元の姿です。
ところで竹千代は織田家の人質でしたが、織田・今川との間の人質交換で、今川義元の人質になりました。ただ、今川義元の人質といっても厚遇されていました。
竹千代の教育のため今川義元の政治・軍事の参謀で僧侶だった太原雪斎が行いました。英才教育です。
そして竹千代が元服した際、今川義元の「元」を与えられ、松平元康と名乗りました。これは凄い事で重臣扱いです。
さらに今川家の親戚(今川一門)の関口氏純の娘・瀬名と徳川家康は結婚しています。破格の待遇といっても過言ではありません。
もしかして今川義元は徳川家康の才を見抜いて、息子の今川氏真の補佐役として家康を育てようと考えていたのかもしれません。
しかし徳川家康は桶狭間で今川義元が討たれると今川から独立します。そして名前を「家康」に変えました。
現在の感覚ですと、今川義元への裏切りという印象がありますが、当時は乱世で生き延びるためには裏切りは当たり前の行動でした。
ただ因果応報で、徳川家康は独立し、三河を治めている時、三河で一向一揆が発生し、家臣達が一向一揆側に付くという事態が発生しています。その中には、のちの家康の右腕になった本多正信もいます。
それだけでなく小牧長久手の戦いの際、徳川家康の重臣だった石川数正も豊臣秀吉に出奔しています。戦国時代、生存のために家臣はいつでも裏切る可能性がありました。
そんな状態だったので大名は家臣に対して懐柔作戦や恐怖政治を行ったりと色々苦労していたようです。
今川義元の時代の駿府は小京都を思わせる華やかな都会として繁栄しました。
徳川家康は岡崎で生まれましたが、育ちは駿府のため、駿府に愛着がありました。
そのため将軍職を秀忠に譲って大御所になった時、駿府に居城を構えました。巨大な駿府城を築城されたと言われています。
日本の最高権力者だったため家康詣でが行われました。政治の中心は駿府でした。そして徳川家康は海外との交易に力を入れていましたので、駿府の港に南蛮船がやってきていました。国際都市でもありました。
ところで山田長政の像が静岡浅間神社近くの浅間通りにあります。山田長政は静岡駅付近の出身です(ほかにも伊勢出身などの説がありますが)。国際都市で育った山田長政。徳川家康は自由貿易を目指していたため、山田長政が海外との交易に興味を持つのは自然の流れのようですね。
ただ、徳川家康亡き後、政治の中心が江戸に移ったのに伴い、武士や商人も一斉に江戸に移ったため駿府の人口が激減し、一地方都市になりました。
駿府城には徳川秀忠の三男・忠長が城主を務めましたが、改易に遭った上、自害に追い詰められました。兄の家光と仲が悪く悪態をついていたと言われています。
後継者争いの話もありますが、長くなりますので、今回は割愛します。
その後、駿府は幕府直轄地になりました。徳川家が駿府に戻るのは明治になってからで、最後の将軍・徳川慶喜が隠居後、住んだ所が駿府です。
徳川慶喜が隠居後に住んでいた屋敷跡は懐石料理の浮月楼になっています。静岡駅のすぐ近くにあります。
歴史散策を楽しみました。