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行政単位。明治時代、県と郡だった。

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 先日、兵庫県神崎郡福崎町にあります神崎郡役所跡を見て、郡という行政単位があったのを初めて知りました。
 中は資料館になっていましたので、神崎郡の歴史や郡制の話を見てきました。

 今は郡といえば、市町村の中で、町村を、ある大きさにまとめる括りとなっています。
 現在でしたら兵庫県の神崎郡といえば、福崎町や市川町、神河町を、ひと括りにしています。

 でも、中学校の時に習った歴史を思い出しますと、色々な事に気づきます。
 奈良時代、地方を治める役職として、国司、郡司というのがありました。
 習った当時、奈良時代の行政単位で一番大きい単位が国で、その次が郡だった事は知りませんでした。そのため国司・郡司という役職を丸暗記していました。
 今になって、国の長が国司で、郡の長が郡司だったという事に気づきました。国司は今でいう県知事、郡司は市長、町長、村長みたいな感じですね。

 郡という行政単位。丁度良い大きさだったのか、鎌倉・室町時代には、郡を管理する役人・守護代がいました。
 ただ、江戸時代には郡代という役職がありましたが、郡代を置かない藩もありました。
 
 明治4年の廃藩置県の際、都道府県の単位の次は町・村になりました。
 ただ、当時の町・村が小さすぎるため、その後、県と町・村の中間的の存在の自治体として、郡制ができ、各郡ごとに役所ができました。
 郡の長は「郡長」でした。その後、行政単位の再編成があり、郡という行政単位がなくなりました。

 ところで奈良時代の郡と、今の郡の範囲は、完全には一致しませんが、それでも当時に近い形で残っています。
 ただ、明治以降、何度も市町村合併があり、異なる郡に所属する町村が合併する事もあったため、町村によっては別の郡に編入があったり、市によっては複数の郡にまたがっている事もあります。
 弊社の本社があります兵庫県宝塚市は武庫郡と川辺郡にまたがっています。本社は武庫郡に属しています。

 郡の歴史を垣間見ると、郡という単位が身近に感じられますね。

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