Blog

清和源氏の家系図で見る、源平の戦い

ブログ

 本日は臨時休業のため、前日にブログを書いて、予約公開をしました。
 昨日のブログで清和源氏発祥の地・多田神社(兵庫県川西市)を取り上げました。
 その多田神社の境内には清和源氏の家系図の看板があります。

 足利尊氏、徳川家康が清和源氏の子孫の話は知っていましたが、明智光秀が清和源氏の子孫とは知らなかっただけに驚きました。
 もしかして自称・清和源氏の子孫の可能性はありますが、それは横に置いておきます。

 源平の戦いといえば、一ノ谷、屋島、壇ノ浦が有名ですが、その後も繰り広げられていると見ますと、歴史が違った視点で見る事ができます。

 平氏は桓武天皇の子孫にあたり、桓武平氏と呼ばれています。源氏と平氏の戦い。因縁の対決と思うぐらい、歴史の各所に出てきます。
 平安時代、平清盛が政権を握りましたが、源氏の源頼朝が平家を滅ぼし、鎌倉幕府を開きました。これは有名な話ですね。
 ところで、鎌倉幕府はたった3代で滅びました。頼朝の息子たちは暗殺されたりしました。鎌倉幕府の執権だった北条時政が権力を握りました。
 北条家は桓武平氏です。源氏への仕返しという見方ができたりします。

 鎌倉時代末期、後醍醐天皇が倒幕を考えます。その時、足利尊氏、新田義貞が出てきます。2人とも清和源氏です。実質権力者の北条家を滅亡した事で平氏への仕返しが完了します。その後、南朝の新田義貞、北朝の足利尊氏と別れますが、親戚同士の主導権争いにも見えたりします。

 室町時代の応仁の乱。
 畠山氏も、細川勝元、山名宗全も清和源氏。身内同士の揉め事に見えたりします。

 室町時代の末期、戦国時代になりました。
 織田信長は桓武平氏を名乗っていました。今川義元は清和源氏です。桶狭間の戦いは源平の子孫の戦いに見えます。
 桓武平氏の織田信長によって、清和源氏の足利家は室町幕府が終わりました。源氏への仕返しですね。

 織田信長は明智光秀に殺されました。明智光秀は清和源氏。まさに平氏への仕返し。
 でも、明智光秀の天下もすぐに終わりました。豊臣秀吉が明智光秀を倒したためですが、なんと秀吉は桓武平氏を名乗っていました。
 農民出身の秀吉が桓武平氏を名乗っているので、自称・桓武平氏に思えますが、源氏への仕返しと見ましょう。

 しかし、その後、徳川家康が大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼしました。平氏への仕返しです。

 自称・清和源氏、自称・桓武平氏の武将もいるかもしれませんが、源平の戦いの続きという視点で見ますと面白いですね。

Share

Category

Archive

Recent posts