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景勝地・闘龍灘と加古川水運。兵庫県加東市滝野町

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 11月25日、加東市滝野町にあります闘龍灘の側を通りました。
 加古川といえば鉄道が開通するまでは、瀬戸内海と丹波方面や日本海側を結ぶ水上交通の要所でした。
 今回は行きませんでしたが、加古川の上流で、兵庫県丹波市氷上町には、船着場の石碑があります。
 ここで荷物を降ろして、日本海側に流れる川(竹田川)へ持っていきました。丹波市氷上町といえば、日本一、標高の低い分水嶺がある所です。
 分水嶺のある場所は、だいたい標高100mです。加古川から竹田川へ物資を移動させる際、峠越えがないため、瀬戸内海から日本海側への物資の輸送が比較的行いやすかった場所でした。

 闘龍灘には阿江与助の像があります。加古川水運の開祖です。
 江戸時代の少し前の1594年に加古川で水運業ができるように加古川の整備を行った方です。
 その功績が認められ、阿江与助が加古川水運を独占する事になりました。今でいう先行者利益ですね。

 ところで闘龍灘は景勝地で、側には料理旅館があるぐらいですが、闘龍灘があるために船が上流、下流を往来できない問題がありました。
 荷物は一度降ろして、上流側(もしくは下流側)の船に乗せかえる作業が発生していました。
 明治5年、村上清次郎ら水運事業者が明治政府に対して岩盤掘削の許可を求めました。翌年、生野銀山の技師だったフランス人・セーム等の指導により工事が行われ、岩盤掘削に成功しました。

 明治以前に岩盤掘削の話はなかったのかと思いました。
 江戸時代、鉄砲は存在していましたので火薬はありましたが、ダイナマイトのような強力な爆薬が日本になかったため技術的に不可能だった可能性はありますし、仮に強力な爆薬があっても幕府が許可しなかった可能性もあります。今となってはわかりません。

 しかし、折角、掘削には成功しましたものの、その後の鉄道開通をきっかけに水運が廃れていきました。

 今ではすっかり水運の様子はありませんが、ところどころ、歴史を感じさせる物や石碑があります。

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