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小野妹子の息子・小野毛人の墓。祟道神社。京都市左京区
3月25日のブログで紹介しました京都市左京区にあります祟道神社の話です。
この神社の境内には、遣隋使で有名になりました小野妹子の息子、小野毛人(えみし)のお墓があります。677年に亡くなったとされています。
どんな人物だったのか調べてみましたが、わかりませんでした。ただ、激動の時代を生きた人物だった事はわかります。
小野妹子の時代は、日本初の女性天皇推古天皇が誕生しました。
そして推古天皇、蘇我馬子、聖徳太子の3人が政治を司っていました。
3人とも身内(聖徳太子の叔母が推古天皇。推古天皇の叔父で、聖徳太子の大岳父が蘇我馬子。聖徳太子の妻の父親も蘇我馬子)でした。
身内による政治ですが、牧歌的な政治ではなく、けん制しあう関係だったようです。
息子の小野毛人の時代は激動の時代でした。
日本では645年に中大兄皇子(天智天皇)と藤原鎌足による蘇我入鹿の殺害と大化の改新がありました。天智天皇の死後、壬申の乱がありました。
663年、白村江の戦いで日本・百済の連合軍は大敗しました上、唐から攻められるのではないかと恐怖に怯えていました。
激動の時代といえば、お隣の中国大陸も激動でした。
小野妹子は聖徳太子が書いた国書を携え隋へ行きました。
そして国書の「日出処の天子、書を日没する 処の天子に致す、恙なきや」で、遣の皇帝・煬帝を激怒させました。
天子は皇帝の意味です。煬帝からしてみると「俺と対等と言うのか。許さん!!」という気持ちだったでしょう。
その後、煬帝は高句麗攻略に失敗したり、隋で内乱が起こったりしました。そして南の揚州に逃げた煬帝は、最後、近衛兵達に殺されました。
その後、唐ができました。唐は高句麗を攻略する際、百済を滅ぼし、唐と新羅で高句麗を挟み撃ちを考えました。
高句麗攻略の前段階の百済攻略。それが白村江の戦いです。歴史はつながりますね。