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聖徳太子が天皇になれなかったのは、推古天皇が長生きしたため

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 8月30日、聖徳太子ゆかりのお寺・斑鳩寺(兵庫県揖保川郡太子町)へ行きました。お寺の境内には聖徳太子像がありました。

 「太子」には「天皇を継ぐ者」の意味があります。古事記には太子を「ひつぎのみこ」(日嗣の御子)とも読んだりします。
 そのため次の皇位継承者の事を「皇太子」と言います。

 皇太子という言葉は、天智天皇の時代にできた言葉だったため、少し前の聖徳太子の時代は太子(ひつぎのみこ)でした。
 ところで、なぜ聖徳太子は、今でいう皇太子なのに天皇になれなかったのか。理由は推古天皇が長生きしたためでした。

 崇峻天皇が暗殺された時、誰が太子だったのかが決まっておらず、男性の皇位継承者が何人かいたため、皇位継承争いを避けるため、敏達天皇の后(豊御食炊屋姫命)に白羽の矢が立ちました。そして推古天皇の誕生でした。その直後、蘇我馬子が厩戸皇子を太子にしました。聖徳太子です。
 崇峻天皇暗殺事件の黒幕とされている蘇我馬子の策略とも言われています。

 推古天皇と聖徳太子は叔母、甥の関係です。聖徳太子は49歳で亡くなりました。推古天皇よりも先に亡くなりました。推古天皇は75歳まで生きました。
 当時は生前譲位がありませんでした。一度、天皇に践祚すると、終身天皇でした。そのため聖徳太子は天皇になれませんでした。

 最初の生前譲位は皇極天皇(重祚して斉明天皇)です。

 ところで推古天皇は最初の女帝と言われています。ただ、神功皇后を天皇だったという見方もあります。
 そのため権力者だった蘇我馬子は絶大な権力を使って先例破りで推古天皇を推したのか、それとも神功皇后の先例があるため、推古天皇を推せたのかは謎です。
 ただ、蘇我馬子の権力をもってしても、推古天皇の生前譲位という先例破りはできなかったのかもしれません。推古天皇が生前譲位を拒否した可能性もあります。

 聖徳太子のいう名前。実は聖徳太子が亡くなって100年後の書物に「聖徳太子」という文字が現れました。
 生前は「聖徳太子」とは呼ばれていませんでした。でも、素晴らしい皇太子だったからこそ後世に「聖徳太子」と名づけられました。

 推古天皇誕生をキッカケに、ある慣例ができました。
 当時、天皇になるには、ある一定の年齢に達するのが条件でした。そのため男性皇太子がある年齢に達していない場合、中継ぎとして皇族未亡人が天皇を務める事です。

 聖徳太子の時代を見ますと、皇族の慣例が形成されていく姿が垣間見えますね。

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