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三種の神器なしで天皇になった後鳥羽天皇

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 三種の神器は、皇位継承者が受け継ぐ神物で、今年5月1日の剣璽等承継の儀で、上皇陛下から天皇陛下へ受け継がれました。
 剣璽等承継の儀―令和元年5月1日(首相官邸のyoutube)

 南北朝時代、南朝が三種の神器を持っていたため、北朝は剣璽等承継の儀を行わずに天皇になっていました。
 しかし、南北朝時代以外で、剣璽等承継の儀を行わずに天皇になった人物がいます。後鳥羽天皇です。承久の乱の後鳥羽上皇です。

 平安時代末期、平清盛が権勢を振るっていました。平清盛は自分の孫を天皇にしようとしました。
 その時、朝廷には安徳天皇を認めない反・平家の勢力がありました。
 それでも清盛は1180年、安徳天皇(3歳)が即位させました。藤原の摂関政治と同じやり方ですね。

 しかし、翌年に清盛が死去。平家転落の始まりです。
 1183年、源義仲が京に迫ると平家一門が安徳天皇を連れて西国へ逃亡が始まりました。この時、三種の神器も持って行きました。
 同年、安徳天皇を認めない勢力が後鳥羽天皇(4歳)を即位させました。なんと天皇が2人いるという事態になりました。
 天皇が2人いるのは南北朝時代だけではありませんでした。
 この時、三種の神器は平家側にあるため、後鳥羽天皇は剣璽等承継の儀を行わず、天皇になりました。

 その後、源氏は平家討伐のため西へ攻めて行きました。一の谷、屋島と平家を追い詰めていく源義経。
 1185年、壇ノ浦の戦いで、平家が負けるのが確実になった時、平時子(清盛の妻)が、8歳の孫の安徳天皇を抱いて海に飛び込み心中しました。
 天皇と心中という前代未聞の大それた行為でした。しかも三種の神器も一緒に海の中へ放り込まれました。
 しかし、なぜか平時子は、後世になっても極悪な存在となっていません。不思議ですね。

 源義経は、兄の頼朝から安徳天皇と三種の神器をもって京都に戻るように指示されていました。
 しかし安徳天皇を救出できず、三種の神器のうち、草薙剣は見つかりませんでした。

 頼朝は政治力に長けていましたが、義経は政治が理解できませんでした。そのため以前から義経は、兄の頼朝の言う事を理解できず、戦い優先で先走った行動ばかりとっていました。そして、壇ノ浦の戦いの大失態が、頼朝と義経が対立する決定打になりました。

 ところで平時子の姓が「平」になっています。
 当時、貴族や武家社会では夫婦別姓なので、なぜ「平姓?」と不思議に思いそうですが、平時子は中級貴族の平時信の娘でした。単なる偶然ですね。

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