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2人の皇子が隠れ住んだ石室。兵庫県三木市志染町

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 9月29日、兵庫県三木市にある志染の石室へ行きました。
 この石室ですが、1500年ぐらい前に履中天皇の孫の意祁命(おけのみこと)と袁祁命(をけのみこと)の兄弟が隠れ住んだ石室です。

 当時、暴君・雄略天皇(第21代)は粛清を行っていました。
 2人の皇子の父親だった市辺押磐皇子(雄略天皇の従兄弟)が殺されました。
 そのため身の危険を感じた2人の皇子(意祁命・袁祁命)は播磨へ逃げ、この地に隠れ住みました。

 その後、2人の皇子は身分を隠して、地元豪族の下僕として働くことになりました。

 月日が経ち、雄略天皇が崩御。雄略天皇の息子が践祚し清寧天皇になりました。

 ここから古事記と日本書紀の記述が異なります。
 古事記では清寧天皇には皇子がおらず、清寧天皇の崩御の後、女性皇族(飯豊王)が天皇の職務を代行していました。
 そんな中、山部連小楯が播磨地区の長官として派遣されました。山部連小楯をもてなす宴会で、2人の皇子が正体を明かしました。
 皇室には後継者がいなかったため山部連小楯が大喜びしました。
 そして2人の皇子は大和へ帰りました。

 日本書紀では、まだ清寧天皇は生きていましたが、後継者がいなかったため、2人の皇子を大歓迎しました。

 清寧天皇の跡継ぎを決める際、2人の皇子はどちらが皇位を受け継ぐかで譲りあいをしました。
 そして山部連小楯の前で最初に「正体を明かそう」と言った弟の袁祁命が践祚し顕宗天皇になりました。
 しかし、僅か3年で崩御。その後は兄の意祁命が践祚し仁賢天皇になりました。
 2人の天皇は、播磨での下僕生活の中で、民の生活を知った事から、善政を行ったといわれています。

 播磨の伝説では、2人の皇子の恋物語であります根日女伝説があります。
 その話は、加西市の根日女伝説の場所へ行きました際に紹介したいと思います。

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