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奉天池、旅順池と日露戦争。兵庫県加西市

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 10月6日、加西市内を散策していますと奉天池を発見しました。旧・満洲の奉天(現在の瀋陽)です。
 奉天池は立ち入り禁止になっていました。なぜかと思いましたら、池の畔にゴルフの打ちっ放し場があるためでした。
 無断で奉天池の畔へ行き、ゴルフボールが当たると痛いでは済まないですね。

 そして近くには旅順池があるのを知りました。

 なぜ奉天池や旅順池があるのか調べてみますと、明治38年にたけ池ができました。
 明治38年は旅順や奉天の攻略に成功した年でもあります。そのため戦勝祝いを兼ねて、名づけられたようです。

 ところで日露戦争は、日本にとっては生き残りをかけた戦いでした。大国ロシアの南下に対して怯えていた日本でした。
 清は当てになりませんでした。ネルチンスク条約(1689年)でウラジオストクなど、今のロシアの沿海州は清の領土でした。
 しかし、1800年代になりロシアが南下し、ロシアの脅迫によって、清はロシアとの間でアイグン条約(1858年)、北京条約(1860年)を結ばされ、沿海州はロシア領になりました。ロシアの南下を止める所はいませんでした。日本が狙われるのも時間の問題でした。

 そのためロシアの南下を止め、北へ押し返すのが日露戦争の目的でした。
 日露戦争で旅順も奉天も攻略するために、日本軍は多大な犠牲を払いました。そして当初の目的だったロシアを押し返すことに成功しました。
 しかし、日本は弾薬が尽きてしまい、これ以上、ロシアと陸上で戦える状況でなくなりました。弾薬が尽きた事は日本が隠し通しました。

 薄氷の上を歩くような戦いでした。その戦いの状況下で、講和にもちかけ、ポーツマス条約を結び、当初の目的を果たしただけでなく、南樺太や満洲の権益を手に入れました。外交にも大成功しました。

 でも、問題は当時の日本のマスコミにありました。
 日本軍が多大な犠牲を払って、辛勝したにも関わらず、あたかも楽勝のように報じたため、国民はマスコミに騙されてしまいました。
 そして日露講和会議でポーツマス条約で、賠償金がとれなかったため、日本政府に暴動が押しかけ、ポーツマス条約を結んだ小村寿太郎の家が焼かれる騒ぎにまでなりました。

 煽り記事、誇張記事、世論誘導のための発言の切り取り。いつの時代でもマスコミの問題はありますね。

 ため池の名前が日露戦争由来だった事を知り、改めて明治政府が欧米列強を相手に生き残りのために必死だった事を思い浮かべました。

 

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