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アカシゾウ、明石原人。行基が名づけた江井島。明石の海岸線沿い
10月27日、兵庫県明石市の海岸線沿いを散策しました。
JR明石駅(山陽明石駅)から海辺方面へ行き、そこから西へ進んで行くことにしました。
松江公園にタコの滑り台がありました。まさに明石の公園という感じでした。
そして八木遺跡公園からの海岸線の見晴らしは素晴らしかったです。
西へアカシゾウの発掘跡の碑がありました。1960年(昭和35年)に、当時、中学生だった紀川晴彦氏が発見しました。
中学生による大偉業。凄いですね。復元されたアカシゾウの骨格は、大阪市立自然史博物館にあります。
紀川コレクションを基に組み立てられたアケボノゾウの全身骨格(大阪市立自然史博物館)
しばらく西へ向かいますと、今度は明石原人の骨が見つかった場所にたどり着きました。
1931年(昭和6年)、直良信夫によって発見されました。直良信夫は、大分出身で、大分の女学校の教員でした。
その後、東京の研究機関に勤務しましたが、体調を崩し、関東大震災の前日、実家のある大分に戻ることになりました。
その途中、明石で大分時代の元同僚の女性と出会い、その女性と結婚。明石に住むことになり、その後、明石原人の骨を見つける事になりました。
もし、元同僚の女性が明石に住んでいなかったら。もし、1日でも東京から離れるのが遅かったら、明石原人の骨が見つからなかったかもしれないです。
ただ、発見された骨は東京大空襲のために消失してしまいました。
そして播磨町の近づいてきましたら江井島(えいがしま)の碑がありました。石碑に書いている事を読んで驚きました。
奈良の大仏の建立のため陣頭指揮をとったスーパー僧侶の行基が出てきました。土木技術者でもありました。
この辺りの事を地元民は「嶋」と呼んでいました。
行基は「嶋」に港を建設しました。そして祈祷をしました。
するとエイがやってきました。地元民は不気味に感じましたが、行基はエイに酒を飲ませると、エイは気持ち良くなって返りました。
そのため、エイがやってくる嶋」という意味で、江井島(えいがしま)と名づけられました。
のんびり潮風に吹かれ気分転換しながらも、歴史の勉強ができました。