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法律を作った人が、その法律で自滅する話。商鞅と江藤新平

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 自分自身が作った法律で、自分の首を絞める。間抜けなようですが、実際に過去にありました。
 秦の始皇帝が生まれる100年以上前の春秋戦国時代、秦の宰相・商鞅がいました。
 商鞅が法によって統治すべきと考え、様々な法律を制定しました。商鞅の変法です。
 しかし行き過ぎたため、貴族達から反発を食らい、孝王の死後、亡命しようとしましたが、自分が制定した法律により、誰も助けてくれませんでした。その後、捕まり処刑されました。
 商鞅の法による統治の考え方は、秦で受け継がれました。そして商鞅の考え方に基づき、韓の国の王子だった韓非の著書「韓非子」という形で法家の思想をまとめました。
 その韓非子に強い影響を受けたのが当時の秦王だった秦の始皇帝で、中華統一後、法による統治を行いました。
 ただ、法の行きすぎは問題という事で、秦が滅んだ後、劉邦が漢を建国した際は、法家や儒家のバランスを考えました。
 

 明治初期の日本。法務卿(今の法務大臣)だった江藤新平です。
 江藤新平は指名手配犯の写真の載せたチラシを考案しました。その後、明治新政府内で対立が起こり、江藤新平は下野しました。
 明治7年に江藤新平らは佐賀の乱を起こしました。この時、明治政府は、指名手配犯のチラシ第一号として江藤新平にしました。
 江藤新平は逮捕されました。

 ただ、かわいそうなのは江藤新平は公正な裁判を受けられず処刑されました。
 肝心な所では江藤新平が考えた裁判制度が機能していませんでした。なぜ急いで江藤新平を処刑する必要があったのか。
 西南の役が起こる前で、不満士族の爆発を恐れた明治政府は、見せしめを行う必要があったようです。
 不安定な明治政府、不満士族、海外勢力など難題山積でした。そう考えますと、国を統治する難しさを感じますね。

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