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農業用水を巡る争いで、豊臣秀吉まで出てきた話。兵庫県西宮市

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 12月8日、地元の西宮を散策中、北郷公園の義民塔を撮影しました。
 時の天下人・豊臣秀吉まで巻き込んだ事件が起こった場所です。

 1591年、例年にない大干ばつに襲われました。
 鳴尾村の人達が、瓦林村の人達に農業用水を分けてもらうようお願いしましたが、断られました。
 鳴尾村の人達が生きるために、夜中に農業用水を自分達の水田に流しました。水泥棒です。

 水泥棒に怒った瓦林村の人達。室町時代の人達は凶暴で、些細な事で殺傷事件に発展する事は当たり前でした。
 そして血縁・地縁の結びつきが強いため、鳴尾村を応援する周辺の村々、瓦林村を応援する周辺の村々の人達までが加勢して、大乱闘になりました。
 そして死傷者が出る事態になりました。

 当時、豊臣秀吉が喧嘩停止令を出していましたが、無視された形で起こった大乱闘だったため、豊臣五奉行の1人の増田長盛(政権中枢の幹部)が裁きを行う事になりました。
 その際、増田長盛は「水が欲しくて、命は欲しくないのか」と尋ね、鳴尾村の人達が「死を覚悟して水を引く事で、数百人のためになる」と言い、増田長盛が感動しました。しかし、法は曲げられる事はなく、鳴尾村の25人が死罪になりました。その25人を供養した塔です

 ところで中世は紛争解決のため自力救済が行われていました。公権力ではなく、当事者同士が話し合いで解決したり、乱闘で相手を叩き潰すなどといった形で解決していました。
 しかし、自力救済から近代の公権力による裁判へ移り変わるのも室町後期の流れで、豊臣秀吉は自力救済から公権力での裁きに移そうとしていました。
 その過程で発生した大乱闘事件だったため、豊臣秀吉や政権の幹部までが出てくる大事件に発展しました。

 この事件の裁きには続きがあります。「喧嘩両成敗の誕生」(清水克行:講談社選書メチエ)にも取り上げられています。
 豊臣秀吉は村人達が喧嘩停止令を無視したという事で、双方の村や喧嘩に加勢した村の代表者を1人づつ処刑しました。喧嘩両成敗です。
 当時の人々は、事件が発生した場合、被害者にも何らかの落ち度があると発想を持っていました。
 加害者だけ裁くと、加害者側の不満炸裂するため、被害者側も何らかの形で罰せざる得ませんでした。それが当時の人々の衡平感覚です。
 そのため喧嘩両成敗が生まれ、この事件でも豊臣秀吉は喧嘩両成敗に基づいて裁きを行いました。

 日本法制史に残る事件が、身近な所にありましたので、意外さを感じました。

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