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樺太・千島交換条約はロシア封じ込め作戦?

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 今日、2月7日は北方領土の日です。旧島民の方々が、気軽に故郷に戻れる日を願うばかりです。

 ところで間宮林蔵の時代、沿海州はアムール川より南側は清の領土でした。ネルチンスク条約があったためです。
 しかし、清がアロー戦争で負けたのをきっかけに、アイグン条約、北京条約によってロシアが清の領土だった沿海州を割譲しました。
 不凍港が欲しいロシアにとっては、沿海州のウラジオストクやナホトカが魅力ある地でした。

 明治になり、近代国家を目指す日本。当時、日本とロシアとの間に明確な国境はありませんでした。
 江戸幕末、日露和親条約で、樺太は日露両国民が住む雑居地になりましたが、紛争が絶えませんでした。
 そこで明治政府は、日本は主権が及ぶ範囲を確定するため、国境を定める必要がありました。

 しかし当時は弱小の日本。大英帝国に並ぶ大国・ロシアと交渉するのは並大抵ではありません。
 この時、登場したのは国際法に精通した榎本武揚でした。榎本武揚はロシア公使としてロシアと交渉する事になりました。
 「樺太をロシアにあげるから、千島列島を頂戴」を提案しました。最初、ロシアは難色を示しました。

 この時、榎本武揚には秘策がありました。この時、バルカン半島を巡ってオーストリア帝国、オスマン帝国、ロシアが権益を巡って争っていました。
 ロシアがバルカン半島に手をとられているため、榎本武揚は足下を見た交渉を行いました。その結果、1875年、樺太・千島交換条約が結ばれました。

 ところでロシアは不凍港を求めていました。
 露土戦争は黒海から外に出たいロシアと、それを防ぎたいトルコ、大英帝国との戦いでした。
 その後もグレートゲームと呼ばれる戦いを大英帝国とロシアの間で繰り広げてきました。ロシアは東へ移動し、大英帝国も東へ移動してロシアが海に出るのを拒む。イランで衝突したりしました。日本も安全保障を考えれば、ロシアの南下は防ぎたいところです。
 そのため千島列島を日本の領土にした事で、ロシアが太平洋に出にくくなりました。ロシアの封じ込めです。

 榎本武揚は五稜郭の戦いで敗軍の将でした。しかし、明治政府は榎本武揚の国際法の知識を生かすべく、榎本武揚を処刑せず、登用する事にしました。
 榎本武揚も旧・幕臣から裏切り者というそしりを受けながらも明治政府に尽くしました。これがあったからこそ、大国ロシアとの交渉に成功しました。
 明治政府も榎本武揚も偉いとしか言いようがないですね。

 学校の日本史では「樺太・千島交換条約」と覚えさせられるため、退屈な上、すぐに忘れてしまいそうですが、背景を知りますと、歴史が面白くなりますね。
 

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