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後嵯峨天皇、亀山天皇、後伏見天皇の火葬塚。京都市右京区嵯峨(嵐山)

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 2月11日、京都嵐山へ行きました。渡月橋から近い場所にあります嵐山公園(亀山公園)に後嵯峨天皇、亀山天皇、後伏見天皇の火葬塚があります。
 3人の天皇の火葬塚が同じ場所にありますが、3人の天皇の名前を見て不思議に思いました。

 後嵯峨天皇は、南北朝の争いの元凶を作った天皇です。
 亀山天皇、後伏見天皇は、それぞれ大覚寺統(後の南朝)、持明院統(後の北朝)です。お互い対立していました。

 南北朝の争いの元凶。
 後嵯峨上皇と、2人の息子の後深草上皇(兄)、亀山天皇(弟)の関係にありました。

 後嵯峨上皇は治天の君と呼ばれる最高実力者の地位でした。
 最高実力者の地位を、寵愛する亀山天皇に譲ろうと考えていました。

 ただ、当時は次期・天皇、次期・治天の君を決めるのには、鎌倉幕府の承認が必要でした。
 承久の乱以降、朝廷は幕府の管理下にあったためでした。

 後嵯峨天皇は後継者指名を行わずに崩御しました。
 父親に冷遇されながら、我慢していた後深草上皇でしたが、目の上のたんこぶがいなくなったため、「俺の息子を天皇にする」と言い出しました。
 亀山天皇は「俺の息子を天皇にする」と言い張り、兄弟げんかになりました。

 この2人の兄弟ですが、後継者争いだけでなく、女性を巡って奪い合いの話があります。

 この時、後継者を承認する鎌倉幕府でしたが、蒙古襲来の対応に追われていたため、面倒な問題に関わりたくなかった状態でした。
 そのため後深草天皇の皇統と、亀山天皇の皇統が交代で天皇を出す事にし、治天の君も交代で行う事で、問題を先送りしました。両統迭立です。

 その後も両者は対立していましたが、両統迭立は維持されました。
 それを破ったのが後醍醐天皇でした。後醍醐天皇の話を書きますと長くなりますので、今回は省略します。

 歴史的背景を知りますと、後嵯峨天皇と亀山天皇の火葬塚が同じなのは納得できますが、亀山天皇の皇統と対立していた、後伏見天皇の火葬塚が、同じ場所にあったのは不思議ですね。
 

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